伤逝子君像再考.pdfVIP

81 「傷逝」子君像の再考 李 爲民 0. はじめに 1925 年に書かれた小説「傷逝」は、魯迅が男女の恋愛を描いた唯一の作品で ある。1926 年、彼の小説集『彷徨』に収録される以前に、雑誌、新聞などに発 表されたことはない。叙述の便宜のため、「傷逝」のあらすじを述べておく。 男性主人公涓生と恋人の子君は、二人とも知識人であり、五・四運動前後 1 [1919] 盛んに宣伝された「個性の解放」、「恋愛の自由」、「男女平等」等の思想 を信じている。彼らは、周りの反対を無視して、旧道徳（儒教の教えを中心と 2 する「三綱五常」 ）に逆らい、自主的な婚姻を目指し、自由な恋愛を経て共同 生活を始める。しかし一年足らずのうちに、二人の間にひびが入り、涓生の失 業をきっかけに、関係が破綻する。涓生の愛だけを頼りにしていた子君は、愛 していないという真実を涓生に告白され、やむを得ず実家に引き戻され、まも なく死ぬ。独りで生きていこうとする涓生は、子君の死を知り、愛していない という真実を告げたことを後悔し、子君に対する悔恨と悲哀をいだき、新しい 道を歩んでいこうとする。 涓生と子君は、かつて個性の解放、自主的な婚姻という信念・理想を実現す 3 るため、旧社会 に抵抗し戦ったが、結局涓生の失職及び子君の死という結末を 招き、恋愛の自由に基づいて作り上げられた近代的な小家庭は失敗した。先行 研究では、二人の破綻の原因が旧社会の重圧にあるのか、涓生にあるのか、ひ いては子君にあるのかについて論じられてきた〔後述〕。本稿は、旧社会の重圧 や涓生の責任などの論点とは別に、現実生活の中に表れた子君自身の弱点もそ の破綻の原因の一つであることを論証する。筆者は、子君の言動から、子君が 意識上の強者でありながら現実生活では弱者であり、特に彼女自身が実際の生 活の弱点を持つことによって、結局は涓生との共同生活が破綻したのではない かと考える。 本論に入る前に、涓生と子君の破綻の原因について指摘されてきた論点を以 82 李 爲民 下にまとめる。 4 第一に、二人の破綻の原因を旧社会の重圧に求めるものである 。二人の行動 が旧社会においては許されないため、子君は家族、叔父と縁を切り、涓生も友 人と断交せざるをえなくなる。とうとう同棲が発覚すると、涓生は職を奪われ、 二人の生活が成り立たなくなってしまう。そのため旧社会の重圧は涓生と子君 の破綻の主な原因であるとされた。次に、二人の破綻の原因を根本的には旧社 会の重圧にあるとしながらも、中国旧社会から遊離し独り歩きをする近代の恋 5 6 愛観 に翻弄された、目覚めた青年知識人の悲劇という論説である 。「傷逝」の 社会背景となる五・四運動前後、個性の解放、男女平等、恋愛の自由といった 新思想が新聞、雑誌にあふれており、青年知識人の涓生と子君は、時代の波に 乗り、新思想を自分の理想、信念とし、更には実行に移した。しかし現実と理 想の間にギャップがあることが、後に共同生活を始めてから分かってくる。涓 生はそれに気づき、人生の基本は生きることであるということを自覚しはじめ るのに対して、子君は涓生の愛に浸かり、わからぬままに死ぬ。このような五・ 四運動前後に提唱された近代の恋愛観の受容については、中井（1987）、李希凡 （1988）が分析している。第三に、涓生のエゴイズムが二人の破綻、特に子君 7 の死を直接導いたという分析がなされた