翻訳の理論のために-日语语言文化.docxVIP

翻訳の理論のために-日语语言文化.docx

  1. 1、本文档共4页,可阅读全部内容。
  2. 2、原创力文档(book118)网站文档一经付费(服务费),不意味着购买了该文档的版权,仅供个人/单位学习、研究之用,不得用于商业用途,未经授权,严禁复制、发行、汇编、翻译或者网络传播等,侵权必究。
  3. 3、本站所有内容均由合作方或网友上传,本站不对文档的完整性、权威性及其观点立场正确性做任何保证或承诺!文档内容仅供研究参考,付费前请自行鉴别。如您付费,意味着您自己接受本站规则且自行承担风险,本站不退款、不进行额外附加服务;查看《如何避免下载的几个坑》。如果您已付费下载过本站文档,您可以点击 这里二次下载
  4. 4、如文档侵犯商业秘密、侵犯著作权、侵犯人身权等,请点击“版权申诉”(推荐),也可以打举报电话:400-050-0827(电话支持时间:9:00-18:30)。
  5. 5、该文档为VIP文档,如果想要下载,成为VIP会员后,下载免费。
  6. 6、成为VIP后,下载本文档将扣除1次下载权益。下载后,不支持退款、换文档。如有疑问请联系我们
  7. 7、成为VIP后,您将拥有八大权益,权益包括:VIP文档下载权益、阅读免打扰、文档格式转换、高级专利检索、专属身份标志、高级客服、多端互通、版权登记。
  8. 8、VIP文档为合作方或网友上传,每下载1次, 网站将根据用户上传文档的质量评分、类型等,对文档贡献者给予高额补贴、流量扶持。如果你也想贡献VIP文档。上传文档
查看更多
翻訳の理論のために  翻訳とはどういう仕事だろうか。鳥にたとえるなら、不如帰〔ほととぎす〕か鶴だろうか。血を吐くようにして訳文を書いていく点では不如帰に似ているし、 原著者への思いから、自分の身を削るようにして訳文を書いていく点では鶴の恩返しに似ている。 五里霧中、暗中模索ともいえる状態で翻訳の仕事を続けていると、道標かビーコンがほしくなる。名訳を探し、名訳者を探すのはそのためだが、もうひとつ、 しっかりした理論があればと願うようにもなる。翻訳という仕事の本質、目指すべき方向を解きあかし、翻訳にまつわるさまざまな俗説と誤解を批判する、そう いう理論があればと願う。だが、翻訳という分野には、まともな批評すらないのだから、まともな理論はないようにも思える。 もちろん、翻訳論と銘打ったものは少しはある。世の中には学界という不思議な世界があって、論文を書かなければ生き残れない仕組みになっているようだ。 だから学界の人たち、学界に入りたい人たちは必死になって論文を書く。論文を書くとき、翻訳という分野はいわば穴場になっているようだ。これまであまり研 究されてこなかったため、気楽に取り組めるテーマがいくらでも見つかる。だが、そうやって書かれた論文は、翻訳者が道標にしうるようなものではない。 いや、いくつかは定評のある翻訳論もあるといわれるかもしれない。たしかに、ナイダやムーナン、ベヌーティといった人たちの著書があるし、ドライデンや ベンヤミンらのエッセーにも面白いものがある(興味のある方は、たとえばThe Translation Studies Reader, edited by Lawrence Venuti, Routledgeを参照)。 だが、正直にいうなら、欧米の翻訳論はたいてい、道標にもビーコンにもならないように思える。欧米の翻訳論を下敷きにした日本の翻訳論はたいてい退屈だ。なぜなのか。 なぜなのかが分かれば、自分で翻訳論を組み立てられる。翻訳で苦労することも、たぶんなくなる。分からないから苦労している。だが、いくつかの点は指摘 できるように思う。 既存の翻訳論はたいてい、文学か言語という観点から書かれている。それはそれでいいのだが、社会、歴史という観点が抜け落ちていることが多い。ところが 翻訳は、いつでもどこでも社会的な現象である。社会という要素を捨象したとき、翻訳の本質はみえにくくなる。 翻訳というものの出発点は、2つの共同体、言語を共通項とする共同体の接触である。たとえば、英語を共通項とする共同体と日本語を共通項とする共同体が 出会う。そのとき、2つの共同体がどのような関係を結ぶかによって、翻訳が発生する場合もあるし、発生しない場合もある。 2つの共同体が出会っても、どちらも相手から学びたいもの、取り入れたいものがとくにないと感じた場合には、通常、翻訳は発生しない。翻訳が発生するの は、通常、相手から何かを学びたい、何かを取り入れたいと強く望む場合である。言語の違う共同体から何かを学ぼうとするとき、その方法は大きく分けて2つ ある。第1が相手の言語を学ぶ方法である。外国語を学び、外国語で学びたいものを学ぶ。これはごく自然な方法であり、この方法をとった場合には、翻訳は成 立しない。翻訳が行われるのは、それほど自然ではない第2の方法がとられたときだ。第2の方法は相手の共同体の言語で書かれたものを、自分の共同体の言語 に翻訳して学ぶものである。 個人が外国の個人から学ぶのであれば、翻訳は不必要だ。翻訳を行うのは、学んだ内容を同じ言語を使う共同体に伝えるときである。だから、翻訳は、いつで もどこでも社会的な現象なのだ。何をどのように翻訳するのかは、2つの共同体の関係によって変わる。そして、翻訳は2つの共同体の関係に影響を与える。 以上はきわめて大雑把だが、翻訳の社会性を考えるヒントになるのではないかと思う。この社会性をはっきりと意識した場合、みえてくるものがたくさんある と思う。たとえば、ヨーロッパの以前の翻訳論では「翻訳不可能性」が大きなテーマになっていた。このテーマで対象になっていたのは、古代ギリシャ語やラテ ン語で書かれた韻文であることが多い。「翻訳不可能論」という主張は、古典語を学び、古典語で学ぶべきだとする主張だと考えれば、理解しやすくなる。学ぶ べきものは何でも翻訳して学ぶのが常識になっていれば、「翻訳不可能論」という主張はあらわれにくい。翻訳が不可能なら、学ぶことができなくなる。いかに 難しくても、学ぼうとするはずである。 この社会性を捨象したとき、翻訳論がいかにつまらなくなるかを示すのが、ナイダの一連の著作ではないかと思う。四半世紀ほど前には、翻訳論といえば、 ユージン?ナイダのdynamic equivalentの

文档评论(0)

kolr + 关注
实名认证
文档贡献者

该用户很懒,什么也没介绍

1亿VIP精品文档

相关文档