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荒川中流域の洪水と河床変動
石田 武・長田真宏・吉崎秀隆・田村俊和・菊地隆男・門村 浩・高村弘毅
1.はじめに
荒川中流域では,古くから洪水の被害に見舞われてきた.これらの記録は,多くの歴史資料に集録
されている.近世になると,水田開発の促進を目的として,堤防の造築や河川改修など治水利水事業
が盛んに行われるようになる.その中でも,1629 年(寛永 6 年)の荒川の瀬替え(荒川河道を和田吉
野川,市野川に付け替えた)は,荒川の河川環境を変える大改修であった.近代に入ると,河床での
砂利採取,人工構造物の設置,上流域でのダム建設など,河川環境に対するインパクトはますます大
きくなる.本報告では,近世以降の洪水を対象として,堤内外地における洪水流の流れを復元し,と
くに河床変動と堤防決壊・溢流による洪水発生との関連性について検討する.
2.荒川中流域における近世以降の洪水と氾濫流向
近世以降の荒川中流域における洪水については,栗田(1959)が郷土資料や被災寺院の過去帳など
に基づき,荒川扇状地周辺地域の被害状況をまとめている.そこで,栗田(1959)が取り上げたすべ
ての洪水事例について,破堤位置を同定し,浸水被害を受けた集落の分布状況や浸水深などの記載か
ら,氾濫流の流向を推定して1m 間隔等高線図上に描いた(図 1).
荒川中流域では,1858 年,1859 年,1910 年,1947 年に大規模な洪水が発生した.これらの洪水に
よる氾濫流は,荒川扇状地上の比較的大きくかつ連続性のある旧流路沿いの凹地を流下している.流
下距離は数-10km に及んでいる.氾濫流の水深は,0.5-2mであったと思われる.もっとも最近の 1947
年カスリン台風による洪水の氾濫流は,元荒川流路に沿って流下した.
荒川左岸の熊谷市街地-久下,榎戸-大芦,右岸の村岡-玉作では,小規模な洪水が頻発している.
これらの洪水によって,多くの落掘が形成された(図 1 中の×印).氾濫流の流下距離は,上記 4 事例
の場合と比べてかなり短いが,凹凸に乏しい低平地が広がることから,広範囲に冠水したと思われる.
このようなタイプの洪水は,1825 年の荒川左岸(新田-大芦),1938 年の荒川右岸(手島-玉作)で
も発生している.
3.荒川大橋付近の堤外地段丘
(1)堤外地段丘について
荒川中流部の堤外地には畑や運動場として利用されている平坦地(高水敷)が存在するが,現河床
とは数mの比高をもつ段丘と化しているため,大洪水時以外には冠水することは稀である.荒川大橋
付近の右岸側堤外地にある「村岡荒川緑地」と呼ばれる幅約 350m程の段丘もその 1 つで,段丘の地
形を詳細に見ると,比高 1-3mの崖により高位と低位の 2 つの面に分けられる.荒川大橋から下流に
おいては,この低位段丘を構成する砂礫層の中から磁器片をはじめ,いくつかの人工の遺物が発見さ
れ,段丘は比較的近い過去に発生した洪水の堆積物によって形成されたものと考えられる.低位堤外
地段丘の分布や洪水の堆積物から洪水の時代について調べてみたところ,以下のようなことが明らか
となった.
(2)低位堤外地段丘を形成した洪水
荒川の現河床と低位堤外地段丘間の段丘崖の高さは,荒川大橋付近では約 2mで,下流ほど低くな
り,そこから500-600m付近ではほとんど差がなくなる.段丘の分布は,荒川大橋を挟んで長さ約 750
m,幅は最大約 100mにわたるが,荒川大橋付近がもっとも広い.段丘を構成する堆積物は,中礫を
主とする砂礫層で,砂礫の中から「梅に鶯」の彩色絵柄の残された磁器の破片,錆びた鉄釘や蛇籠の
鉄線の破片が発見され,明治時代以降の洪水堆積物であることを暗示する.
1947 年のカスリン台風直後に撮影された空中写真をみると,この時点ですでに低位堤外地段丘は畑
地として利用されており,低水路との間にある程度の比高を有する段丘が形成していたことがわかる.
明治以降で,かつカスリン台風前に発生した洪水には,1910 年,1938 年,1941 年などの洪水がある.
聞き取り調査により,1938 年の洪水では,低位堤外地段丘付近は元来高水敷であったが,砂礫や流木
が大量に押し寄せた,という情報が得られている.このことから,1938 年の洪水によって本段丘が形
成された可能性が高い.この洪水により,小泉において堤防が決壊し,前述のように下流堤内地が広
範囲にわたり湛水した.
4.荒川中流部における河床変動
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