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第Ⅱ章基础条件-墨田区
第Ⅱ章 基礎条件
11
1.墨田区の概況整理
(1)位置・面積
墨田区は、東経139度47分18秒から50分28
秒、北緯 35度 41分 09秒から 44分 31秒にわた
り東京都の東部に位置し、隅田川と荒川にはさま
れています。
面積は、13.75 平方キロメートルで 23 区中 17
番目の広さです。
(2)区の歴史・沿革 図Ⅱ-1 23区の位置と面積
墨田区の歴史を以下の表に示す。
表Ⅱ-1 区の歴史・沿革
時代 西暦 和暦 事柄
比較的堅い洲であった北部区域が、宿駅として武蔵・下総間の重要な経過地
平安
であった。
鎌倉・
北部区域は農村としての営みを続ける。
戦国
徳川家康が江戸に入る。隅田川以西の江戸の町は急速に発展するが、隅田川
1590年 天正18年
以東までは及ばす、北部は農村地域、南部は人煙まれな湿地帯を呈す。
ひ よ け あ け ち
明暦の大火後の防災計画による防火堤や火除明地の区域の武家屋敷、町や、
1657年 明暦 3年
社寺の移転柵として墨東の地(現在の南部地域)を選び、開発が進む。
江戸 竪川、大横川、横十間川、南・北割下水などの掘割の開さくがはじまる。
まん じ これに伴い、南部地区の湿地の埋め立て、道路の築造、整然とした町割の市
1659年 万治2年
街地が建設される。一方で、北部は農村地帯や江戸の市民にとっての遊覧の
地として、多くの文人墨客の訪れるところとなる。
1702年 元禄15年 本所松坂町吉良邸(現本所松坂町公園)へ四十七士の討ち入り。
1704年 宝永元年 利根川の堤防が決壊し、本所のあたりまで被害のでた洪水に見舞われる。
河川に囲われた好適な立地条件や労働事情が、工業地域として地歩を固める
要因となり、諸種の軽工業の、わが国における発祥となり、近代工業地帯と
して東京の枢要な地域に形成するに至る。
明治
東京府制度が改正され大区小区制が実施される。南部は第6大区所属、北部
1871年 明治 4年
は第 11大区所属。
1878年 明治11年 南部地域に本所区が成立。
1912年 大正元年 北部区域は吾妻村町制施行。
1914年 大正 3年 北部区域は大木村を廃し、吾妻村及び本田町に編入。
大正
関東大震災により、南部地域は地震とそれに伴う火災のため 9 割強の人家が
1923年 大正12年
失われ、死者 4万 8千人と東京市全体の 8割強に達する惨状を呈した。
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