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  • 2018-06-09 发布于福建
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PAGE \* MERGEFORMAT 1   越前騒動と由木氏                                 清水太郎   はじめに  慶長十七年(一六一二)十月十九日、北庄藩越前松平家第二代藩主松平忠直は前日の久世但馬守?半兵衛親子の討滅に続いて「弓木左衛門入道齋安といへるも、但馬が党人なりければ、これをも誅せよ」と藩兵を繰り出した。徳川実記には次のように記されている。  台徳院殿御實記巻二十 慶長十七年十一月―十二月 「……討手の者ども多勢塀を乗越攻いれば。但馬は其ひまに女子子兒をばみな落し。其身主従百餘人討手とたゝかひ。家に火をかけことごとく討死す。本多を但馬がもとに使せられしも。但馬がもとにて本多かならず討れんとの謀なりしとぞ。其翌日弓木左衛門入道齋安といへるも。但馬が黨人なりければ。これをも誅せよと討手をさしむくる。こゝにも家人等よく防ぎ。寄手三十餘人を討取て。主従のこらず討死す。上田主水も自殺し。其家人等も寄手多く討取て。其身もみな討死せり。……」  このとき藩内は戦乱状態に陥り、死者は三百余人にも及んだと言われた。世に言う「越前騒動」である。この弓木左衛門入道齋安こそが、北条陸奥守氏照に仕え、北条氏滅亡の後に徳川家康の二男結城秀康に仕官し、二千石を賜わり、その出頭人となった弓木左衛門尉景盛であった。それは八王子市上?下柚木附近を拠点に中世を生き抜いてきた「土豪」由木氏の最後であった。   一 越前騒動の顛末  北庄藩越前松平家第二代松平忠直は、父秀康の病死に伴って慶長十二年(一六〇七)十三歳にして藩主に就任した。秀康は全国から名ある武人を召し抱えたが、幼年の忠直には、家来を充分に統率することができなかった。とくに慶長十六年(一六一一)、久世但馬守の所領する村の娘が同じ村の百姓と再縁(岡部自休入道という町奉行の所領である石森村の百姓と結婚していたが、石森村の百姓が佐渡へ行って三年間を過ぎても帰ってこないため、ご定法に基づいて他に嫁した)した後、石森村の百姓が佐渡から帰ってきて、今の亭主を殺してしまった。自領の百姓を殺されて立腹した久世は、家来に佐渡がえりの百姓を暗殺させた。この私粉を発火点として、藩内は岡部方(岡部自休入道?広沢兵庫?今村掃部助?中川出雲守?谷伯耆守?清水丹後守?林伊賀守)と久世方(久世但馬守?竹島周防守?牧野主殿?本多伊豆守?由木西庵?上田隼人)の二派に分ける抗争に発展した。今村掃部助(岡部方)の讒言を信じた松平忠直は、慶長十六年十一月藩兵を繰り出して久世但馬守?半兵衛一族を討滅したが、合戦同様の争乱は幕府にも聞こえた。同十七年十一月、幕府は本多伊豆守?竹島周防守(以上久世方)、今村掃部助?清水丹後守?林伊賀守(以上岡部方)の五名を召喚して、本多伊豆守?今村掃部助の両名が家康?秀忠の面前で対決させられ、裁断を仰ぐこととなり、本多佐渡守正信が尋問役になって、今村掃部助?本多伊豆守を尋問した。結果は、久世但馬守をひいきにした本多伊豆守?竹島周防?牧野主殿の三人は無罪となり、岡部自休にくみした連中(今村?清水?林?中川?広沢)は全部有罪とされた。今村掃部助らが家中の紛争をとりしずめようともせず、自らの利益のために火の手をあおり立て、久世但馬守を成敗した上に本多伊豆守を窮地におとしいれて殺そうとした陰謀を家康(家康の二男秀康が久世但馬守を誇っていた)が起こったことは容易に想像できる。本多伊豆守の派を勝ちとしたのは、伊豆守が自分の大忠臣であった本多作左衛門の養子で、骨髄からの徳川党であるためとも思われる。こんなわけだから、家康の下した判決は善悪を証明するものとはいえないようである。この騒動は、別名「久世騒動」ともよばれている(「奥山芳広」)。  忠直の逸話(忠直年譜) この年(慶長十七年)老臣争論の事について裁断があった。  はじめは家老久世但馬守の知行地の民、某(甲)が、故あって町奉行岡部自休の知行地の民某(乙)を暗殺した事が発端であった。そののち、この事件がやっと表沙汰になったとき、この乙の親族が知行主の岡部自休に訴えた。自休はこの事を久世但馬に伝えて犯人の引き渡しを求めたが、但馬は本多冨正?竹島周防守などと協議した結果、犯人を匿い、事件を握りつぶしてしまった。自休は今村掃部助?清水丹後守?林伊賀守らと相談し、中川出雲守から忠直公のこの一件を訴えたが、本多冨正と竹島周防はこのことを忠直に上申しなかった。自休は大いに怒り、「今奸計のために私が訴えても(忠直公の)お耳に入らない。私はこの事を関東に訴え、また家老共の悪を暴いてこの恨みをはらす」と語って直ちに江戸に向かって発足した。牧野主殿助も加勢として従った。  忠直公はこの事を耳にし、人を遣わして両人を留め、「このような小事で関東

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