- 1、原创力文档(book118)网站文档一经付费(服务费),不意味着购买了该文档的版权,仅供个人/单位学习、研究之用,不得用于商业用途,未经授权,严禁复制、发行、汇编、翻译或者网络传播等,侵权必究。。
- 2、本站所有内容均由合作方或网友上传,本站不对文档的完整性、权威性及其观点立场正确性做任何保证或承诺!文档内容仅供研究参考,付费前请自行鉴别。如您付费,意味着您自己接受本站规则且自行承担风险,本站不退款、不进行额外附加服务;查看《如何避免下载的几个坑》。如果您已付费下载过本站文档,您可以点击 这里二次下载。
- 3、如文档侵犯商业秘密、侵犯著作权、侵犯人身权等,请点击“版权申诉”(推荐),也可以打举报电话:400-050-0827(电话支持时间:9:00-18:30)。
- 4、该文档为VIP文档,如果想要下载,成为VIP会员后,下载免费。
- 5、成为VIP后,下载本文档将扣除1次下载权益。下载后,不支持退款、换文档。如有疑问请联系我们。
- 6、成为VIP后,您将拥有八大权益,权益包括:VIP文档下载权益、阅读免打扰、文档格式转换、高级专利检索、专属身份标志、高级客服、多端互通、版权登记。
- 7、VIP文档为合作方或网友上传,每下载1次, 网站将根据用户上传文档的质量评分、类型等,对文档贡献者给予高额补贴、流量扶持。如果你也想贡献VIP文档。上传文档
查看更多
三省堂 大辞林
しまづ-よしひろ 【島津義弘】
(1535-1619) 安土桃山時代の武将。兄義久と九州統一事業に活躍。文禄?慶長の役で戦功をたてる。関ヶ原の戦いでは西軍に属して最後まで勇戦。戦後本領は安堵された。
辞書の索引用語の索引ランキング
戦国武将覚書
島津義弘(しまづ よしひろ) 1535~1619
○又四郎 忠平 義珍 惟新斎 兵庫頭 少将 参議 羽柴薩摩侍従◇父:島津貴久 養父:島津尾張守忠親 室:北郷忠孝女、広瀬助宗養女(園田清左衛門女) 子:島津鶴寿丸、久保、忠恒、万千代丸、忠清 薩摩?島津氏一族。当主の兄義久を助け、各地を転戦武名を轟かせた。その武名を知る、日向?伊東氏との戦いに苦戦する豊州家島津忠親に請われ養子となり、その戦いを助け日向攻略に貢献する。豊臣秀吉の朝鮮出征の際には、泗川の戦いにおいて10倍以上の朝鮮軍を敗り、“鬼石蔓津”と怖れられた。関ヶ原の戦いではやむなく西軍につくが、大勢が決するや敵中突破退却した。家中の信望厚く義弘が亡くなった際は、木脇祐秀、折田和泉ら13名が後を追い禁制の殉死を遂げている。
辞書の索引用語の索引ランキング
ウィキペディア
島津義弘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/07/03 10:32 UTC 版)
この項目では、薩摩島津氏の17代目当主島津義弘について記述しています。越前島津氏の島津義弘については「島津義弘 (播磨家)」をご覧ください。 凡例
島津義弘 時代 戦国時代 - 安土桃山時代 生誕 天文4年7月23日(1535年8月21日) 死没 元和5年7月21日(1619年8月30日) 改名 忠平、義珍、義弘、惟新斎、自貞(法号) 別名 通称:又四郎、渾名:鬼石曼子(鬼島津) 神号 精矛厳健雄命 戒名 妙円寺殿松齢自貞庵主 墓所 福昌寺(鹿児島市) 官位 兵庫頭、従五位下、侍従、従四位下、参議贈正三位 主君 島津義久→豊臣秀吉 氏族 島津氏(源氏?惟宗氏) 父母 父:島津貴久母:雪窓夫人(入来院重聡の娘) 兄弟 義久、義弘、歳久、家久 妻 正室:北郷忠孝の娘継室:相良亀徳継室:実窓夫人(広瀬夫人。園田実明の娘) 子 お屋地(二郎相久室、島津朝久室)、鶴寿丸、久保、忠恒(家久)、万千代丸、忠清、御下(伊集院忠真室、島津久元室) ?表?話?編?歴? 島津 義弘(しまづ よしひろ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。九州の南端、薩摩国の戦国大名。島津氏の第17代目当主(後述)。
目次
1 生涯
1.1 黎明期
1.2 勢力拡大
1.3 豊臣政権下
1.4 関ヶ原
1.5 島津家の存続
1.6 晩年
1.7 辞世の句
2 墓所?霊廟?銅像
3 人物?逸話
4 官職位階履歴
5 「島津家17代目当主」
6 家臣?陪臣
7 参照文献等
8 関連書籍
9 小説
10 島津義弘の登場する創作物
11 脚注
12 関連項目
13 外部リンク 生涯
黎明期
天文4年7月23日(1535年8月21日)、島津貴久の次男として生まれる[1]。はじめ忠平と称したが、後に将軍?足利義昭から偏諱を賜って義珍(よしたか)と改め、さらに義弘と改めた。
天文23年(1554年)、父と共に大隅国西部の祁答院良重?入来院重嗣?蒲生範清?菱刈重豊などの連合軍と岩剣城にて戦い、初陣を飾る[1]。弘治3年(1557年)、大隅の蒲生氏を攻めた際に初めて敵の首級を挙げた。だがこの時、義弘も5本の矢を受け重傷を負った[1]。
永禄3年3月19日(1560年4月24日)、日向国の伊東義祐の攻撃に困惑する飫肥の島津忠親を救う意味で、その養子となって飫肥城に入った[1]。しかし永禄5年(1562年)、薩摩本家が肝付氏の激しい攻撃にさらされるようになると帰還せざるをえなくなり、義弘不在の飫肥城は陥落、養子縁組も白紙となった。
北原氏の領地が伊東義祐に奪われたため島津氏はそれを取り返すために助力したが、北原氏内部での離反者が相次いだため義弘が真幸院を任されることとなり、これ以降飯野城を居城とすることになる[1]。
永禄9年(1566年)、伊東義祐が飯野城攻略のために三ツ山城を建設中と聞き及ぶと、兄?義久、弟?歳久と共にこの完成前に攻め落とそうとするが、城は落とせずまた伊東の援軍と挟み撃ちにあい、義弘も重傷を負って撤退を余儀なくされた。
勢力拡大
義久が家督を継ぐと兄を補佐し、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いでは伊東義祐が3,000の大軍を率いて攻めてきたのに対して300の寡兵で奇襲、これを打ち破るなど勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献
文档评论(0)