渋滞学の普遍性.docVIP

文藝春秋　一部改め　「渋滞という普遍性」 渋滞の名所といわれる場所がある。中央自動車道上りの小仏トンネル付近（神奈川県相模原市）、あるいは下りの元八王子バス停付近（東京都八王子市）、さらには東名高速道路の大和トンネル付近（神奈川県大和市）などだ。これらは誰しも一度はテレビやラジオで耳にしたことのある地名だろう。ゴールデンウイークやお盆、そして年末年始にはほぼ確実に渋滞する場所だ。 なぜこの場所はきまって渋滞するのだろうか。国民が一斉に休暇をとって出かけるため高速道路の交通量が一気に増えるのはもちろん原因の一つなのだが、話はそう単純ではない。交通量はどこでも同じように増えているため、やはり渋滞の名所には何か他にはない特別な要因があるに違いない。 車だけではなく、人も渋滞する。毎朝の通勤時の満員電車は、都会生活でのストレスの大きな原因の一つだ。昼食時にも人気のお店は大行列。また、お金を下ろそうとしても銀行のＡＴＭの前ではまた行列。そして気分転換のつもりで休日に遊園地に行っても人が多くて歩きづらいし、何をやるにしても順番を待ってばかりで、かえって疲れてしまうこともある。これらは何とかならないものだろうか。 さらにインターネットや携帯電話で通信する際にもなかなかつながりにくいことがある。夜も２３時以降になると、大きなサイズのファイルをインターネットでやりとりするのにかなり時間がかかるときがある。また災害時における被災地への連絡や、人気チケットの予約開始日の申し込みなどは、電話をしてもつながるかどうかは賭けに近い。これらは通信の渋滞と考えることができるが、その渋滞の様子は車の渋滞と何か共通点があるのだろうか。 このような様々なものの流れとその渋滞をまとめて考えてみようと思いついたのは今から約１０年前だ。混雑、待ち、停滞、などを全て広い意味での渋滞と考え、様々な現象をまとめて渋滞のしくみを明らかしにてみよう、と考えはじめた。それからというもの、渋滞を考えることが楽しくなってきた。もともと渋滞が大嫌いであった私が、だんだんと渋滞研究にのめり込むようになっていったのだ。 それまで私はずっと数理物理学という、数学と物理学の中間に位置する分野で空気や水などの流れに関連した基礎研究をしていた。水は狭いところでは速く流れる。庭にホースで水をまくとき、勢いよく飛ばすために我々はゴムホースの先端を少し手で絞って通り道を狭くする。実際、流体力学という精密な理論によって、ホースの断面積が半分になれば、水の速度は２倍になることが示される。 しかし人は逆に狭い通路では流れが悪くなり渋滞してしまう。車も道路が２車線から１車線に減ると、そこで渋滞が発生して車の速度は低下する。水とは全く逆に振舞うところがとても興味深い。この車や人の流れに関しては、実は流体力学のような精密な科学理論はまだ存在しない。それもそのはずで、人間が関係していることなので、その行動に心理や複雑な判断などが入り、とても水や空気のような単純な流れとして扱うことはできないからだ。従来の科学はこれまで水分子のような意思のない粒子の運動を対象にしていたが、ここでは意思のある粒子、つまり人などを対象にする。こういう粒子は自分自身の判断で動けるという意味で、「自己駆動粒子」と呼ばれている。自己駆動粒子の集団の動きはこれまでほとんど研究がなされていない分野なのだ。 そういった意味でも渋滞研究はやりがいがある。完成された学問を学ぶのではなく、自分で学問体系の建物を作りあげていく楽しさと厳しさがあり、同時に社会に直接役に立つ研究なので士気もますます高くなる。 もちろん人間一人の行動を理論的に扱うのはとても無理な話で、目の前を歩いている知らない人が急に立ち止まったり、右に曲がることを正確に予測できるわけがない。しかし大勢が歩いている駅やホールなどでは、乗り換えるとか、出口に向かうなど目的が単純化されており、しかも周囲に人がいれば自分勝手に動けなくなる。群集の中では、周囲の流れにある程度あわせて行動しないとまともに歩くことすらできない。 車の動きも、道路をたくさんの車が走っているときにはせいぜいアクセルによる加速、ブレーキでの減速、あとは車線変更ぐらいしかとりうる行動はない。このように個人の自由な行動が集団の中で制限され、単純化されたとき、初めて学問として人間の集団行動を科学することができるようになってくる。これはきっちりした流体力学をちょっとだけ「柔らかく」したような理論で、完全な精密科学ではないが、現在ではだいぶ精度よく行動を予測できるところまで研究が進んでいる。 この車や人、そして他の様々な自己駆動粒子の流れとその渋滞を科学する学問を私は約４年前に分かりやすく「渋滞学」と名づけた。これがたまたま新聞や雑誌、テレビ