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第一课世界の中の日本语
第一课 世界の中の日本語
第一组:金蓓 程嘉伊 汪昌栓
世界には、現在なお普遍的な世界語というものは、成立していない。英語?フランス語?スペイン語などかなりの程度に広く流通する言語はあるが、その中のどの一つをとっても全世界を覆うものとはなっていない。むしろ、そのほかの諸言語が世界のある地域の共通語、つまりリングア?フランかとして流通しているのが現状である。たとえば、ソ連邦におけるロシア語、中国及び東南アジアにおける中国語、特にいわゆる普通話、また問うアフリカにおけるスワヒリ語などが、その例である。それらの言語は、ある範囲の地域での共通語として用いられている。日本語の現状は、まさに日本語がこの種の部分共通語になり始めた、ということであろう。問うアジア、東南アジア、西太平洋の諸地域において、日本語は共通に意思を通じ合うための言語の一つになり始めているのである。そういうことが可能になるほど、日本語の学習者が増加し、日本語が普及し始めているのである。
ここで大切なのは、この部分的地域共通語はその言語を母語とする人たちと、その言語を母語としない人たちの間の意思疎通の話ではないということである。日本語に即して言えば、にほんじんと中国人、日本人とタイ人、日本人とオーストリア人とのあいだで、日本語が用いられるということではない。もちろん、そういう場合もあるであろうが、大切なのは、たとえばタイ人とオーストリア人の会話において、日本語が用いられるということなのである。国際語とは、そういうことなのだ。
我々は外国人と話しをする場合、お互いに何語が通じるかを、始めに探り合う。それでタイ人とにほんじんとの間で「英語で行きましょう」とか、日本人とイタリア人との間で「フランス語は、わかります」とかいうことになる。そこに行われるのは英語国民と非英語国民、フランス語国民と非フランス語国民とのコミュニケーションではない。英語やフランス語は、こう言う意味で国際化しているのである。日本語が国際語になってきたというのは、日本語もそういう外国人同士の会話に用いられる可能性を持ってきた、ということなのである。
わたしたちはしかし、これからはその「おぞましき日本語」にたえなければならないのだ。もはや私有財産としての独占権を、主張することができなくなった以上は、そのよう長い語句人の使う奇妙な日本語に慣用できなければならない。普通ではない表現、奇妙な用語法に対して、こちら側が理解する努力をしなければならないのである。それをいちいち厳密に訂正し、日本人のようれいに一致させる努力はもちろん必要であろうが、何処まで成功するであろうか。ある程度のところで妥協しなけらばならないだろう。国際化とは、そういうことなのである。日本語の伝統を厳密に保持しようとする人たちには、或いは耐え難いことかもしれないが、どこかであきらめなければならないだろう。
日本人は国語問題については、戦前からたびたびの激しい論争を経験してきた。しかし、この日本語の国際化という現実は、国語問題に従来見られてなかった、新しい観点をもたらすものとなるであろう。従来は国語問題は日本文化の問題であり、純粋に国内問題であるという観点から全て論じられてきたのであるが、日本語の国際化という事実を前にして、日本語の国語問題は再検討されなければならなくなるであろう。
日本では「国語」という意識が、きわめて強い。国語と外国語の対比において、国語は絶対化されているのである。しかし、その意識は英語?中国語?スペイン語などと並ぶ日本語というところまで、相対化されなければならないだろう。日本語は唯一無二(ゆいいちむに)の国語ではなく、多数ある言語の一つに過ぎないという意識である。しかし、この意識の相対化は、なかなか難しいかもしれない。この種の相対主義は確かに国際的で、開明的で、進歩的である。しかし、日本語にはまるで逆な精神が現実に存在(そんざい)する。「国語の精髄」を守り抜こうという、絶対主義の思想の持ち主がなお少ないのである。日本は「言霊の先はう国」であり、「随神の道(かんながらのみち)」が生きている国だからである。国内において、このような対立する思想の和解とコンセンサスを、どのように作り上げてゆくか。それが問題である。
国際化によって、日本語は多少とも変わらざるを得ないであろう。その純粋性を保持し続けることは、恐らく難しいであろう。既に明治以来、日本語は大きく変容を遂げてきた。語彙は豊富(ほうふ)になったけれど、語法や表現はむしろ簡素化され、法則化が進んだといえる。日本語が国際化することによって、その傾向はいっそう進むであろう。逆に言うと、日本語の国際化は、日本語の近代化に大きな契機をもたらすことになるかもしれない。日本語の変革のエネルギーを
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