第4讲 春秋时代の概要.docVIP

  • 1
  • 0
  • 约3.7千字
  • 约 3页
  • 2017-06-08 发布于重庆
  • 举报
第4讲 春秋时代の概要

第4講 春秋時代の概要 10月29日 高校世界史教科書に見える主要用語 『春秋』 覇者 斉の桓公 晋の文公 呉越同舟 尊王攘夷 卿?大夫?士 宗法 孔子 儒家 史料 列国期金文、『春秋』『春秋左氏伝』など 政治 周の一族の根拠地が、渭水流域から黄河中流の洛陽付近に変化した頃から後の時代を、通例、春秋時代と呼ぶ。概ねこの時代に相当する期間について、『春秋』と呼ばれる書物に記録があるからである。周王の勢力範囲の変化については、従来、「犬戎」と呼ばれる勢力に鎬京を攻撃されたことによるものとして、「周の東遷」と呼ばれてきたが、近年、平勢隆郎氏は、『竹書紀年』などを史料として、これが寧ろ、周王族内部の抗争に起因する可能性の高いことを論証しておられる。従うべきであろう。 なお、平勢氏の議論に関しては、前講で紹介した近年出土の新たな青銅器の銘文理解とも関り、様々な検討がなされている。詳しくは、平勢氏のホームページ http://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edo2/edo.cgi/hirase を参照されたい。 ただ、この時期以後の史料には、「尊王攘夷(周の王を尊重し、夷狄を追い払う)」といった言葉が象徴する、「夷狄」と呼ばれる人間集団を排除しようという意識が登場するようになるのも事実である。 穀物生産は、単位面積当りの生産熱量が多く、他の生産様式に比べて養い得る人口が多い。人口の増加した定着農耕民が、森林草原の開発を進め、その場所を森林草原のまま利用してきて、将来も利用する必要のある狩猟?採集民や牧畜民との間に、摩擦を引き起こすようになったことは確かだろう。 高校教科書などでは、しばしば「北方から侵入した遊牧民などの異民族を???」といった記述が見られる。中国大陸の北方に位置する草原地帯を移動する遊牧民が居たことは林俊雄氏によれば紀元前9-8世紀頃から確認できるというが、既に第3講以来述べてきているように、華北に狩猟?採集?牧畜を主として暮す集団は、早くから存在していた。殷の王族も一種の狩猟民的側面を有していたし、周が殷を破ったのも、羌族ら遊牧民の協力を得てのことである。従って、春秋の覇者が攘(はら)った、という「夷狄」が、「侵入」してきた人々である、とする根拠は無い。そもそも、当時「国境」という概念も実態も存在していない。せいぜい、「邑」を取り囲む「城壁」がその「境界」であった。邑の外側に広がる森林や草原は、非定着農耕民の暮しの場であった。従って「覇者」の軍事行動は、定着農耕民を中心とする彼ら諸侯の勢力が、「土地」を確保することの有効性を認識し、彼らと敵対的になった非定着農耕民集団を、自らの勢力範囲の圏外に追いやろうとした、と理解すべきであろう。 事実?『春秋左氏伝』には、春秋時代のエピソードとして、非敵対的な「夷狄」集団が春秋の五覇に数えられる晋の文公を庇護したり、一族の娘と文公自身やその部下が通婚したり、といった記録が残っている。文公に先立って覇者の名を得た斉の桓公は、「山戎」などを追い払った、とされているが、斉の地域には、桓公の死後も、牛馬の飼育に長けた人々が有力者となっていたり、「莱夷」と呼ばれる人々が斉公の支配下にあったりしたことも記録されている。このような「記録」の成立時期については、かなり専門的な検討が必要であるが、こういうエピソードが「春秋時代」らしさ、を有している、と、記録形成期の人々に認識されたことだけは、確実であろう。 さて、このような「記録を残した人々」の世界内部に話を限定すると、春秋時代には、西周期に意図されていた秩序が変化していったらしい。まず、諸侯が、周王にはかばかしく貢納しなくなった、という記録が出てくる。周王の軍事的命令も、必ずしも徹底せず、青銅器も各国が独自に鋳造するようになり(おそらく、鉱山開発も各地で個別に経営され始めたのであろう)、やがて、政治的象徴としての役割を失って、単なる美麗な容器にすぎなくなってゆく。強大な軍事力を整え得て、他の諸侯に対し、周王を中心とする秩序形式すなわち、宗法制(擬制的なものを含む血縁関係秩序。本家と分家といった概念に近い)を中核とする一種の国際秩序に参加せよ、と呼びかける諸侯=覇者の存在意義が、発生したわけである。諸侯の邑は、普通「国邑」と呼ばれたが、諸侯の下にあったとされる卿や大夫といった位の人々も、自己の一族が管理する「都邑」を保有し、彼らに貢納する農民(諸侯が、周王から『封建』された当初から従属していて共に入植した集団、「封建」によって新たに支配を受けるようになった土着の集団、諸侯の支配圏が成立してのち新たに組み込まれた集団、等々、諸種あったはずである。)が居住している「鄙邑」に、士の階層の者を「宰」として派遣し、管理していたようである。ど

文档评论(0)

1亿VIP精品文档

相关文档