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「西田哲学の核心にある<宗教的要求>は、西
田自身のさまざまな葛藤の中で、思想の統一や
心の安定を求めた結果、結実した思想と言える
でしょう」と氣多教授
連続講演会「東京で学ぶ 京大の知」シリーズ 12 人間と宗教 第 1回
西田幾多郎『善の研究』における<宗教的要求>とは何か
京都大学が東京?品川の「京大東京オフィス」で開く連続講演会「東京で学ぶ 京大の知」
のシリーズ 12「人間と宗教」。8月 8日の第 1回講演では、文学研究科の氣多雅子教授が「西
田幾多郎『善の研究』における<宗教的要求>とは何か」と題して、西田幾多郎が宗教を
どう捉えていたか、人生において宗教がどんな意味を持っていたかを紐解いた。
●『善の研究』が形成されるまで
西田幾多郎(1870~1945)は、東洋思想を地
盤に西洋哲学を融合した「西田哲学」を樹立。“京
都学派”と呼ばれる潮流の原点を創った、近代日
本の代表的哲学者であり、『善の研究』は、1911
(明治 44)年発行の西田最初の体系的著述だ。
同著は、第一編「純粋経験」、第二編「実在」、
第三編「善」、第四編「宗教」の 4 編からなって
いる。最後が宗教であり、かつ第一?二?三編そ
れぞれの最終章が宗教に関する内容となってい
るのは、「宗教は哲学の終結であると位置づけら
れているからです」と、氣多雅子教授は話す。
「第四編の第一章が<宗教的要求>で、第二
章が<宗教の本質>。宗教について考察する際、
通常なら本質から入るものですよね。<宗教的要求>は西田思想の核心にある事象。そこ
から語られることに、本著述の特徴があります」
西田は主観?客観が区別される以前の直接に与えられた経験である「純粋経験」を自己
の哲学の出発点に据えており、『善の研究』も純粋経験の立場から、知識、道徳、宗教の一
切を基礎づけて思考している。
西田にとって純粋経験の把握の土台となっているのが、禅体験である。20 代半ばから熱
心に参禅をし、実生活において悩みがあったことも、禅に傾倒する背景だったという。
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当時の日記を見ても、学問と宗教、自己安心(心の安定)について、さまざまな葛藤が
あったことがうかがえる。
例えば、日記には「自己の思想の統一」という表現が頻繁に出てくる。『善の研究』にお
いて「統一」は根本的な問題として表れてくるのだが、この時期、西田は「哲学と自分の
心の問題が一致すべき」と考え、思想の統一を求めて苦しみ悩んでいたのである。書簡に
も「思想統一の近道は禅だと思う」、「学問を一生の仕事に選ぶ」といった内容が書かれて
いる。
「このような葛藤の上で、『善の研究』が形成されたわけです。思想の統一、自己の安心
を目指した西田自身が実践してきた事柄が、思想として結実したのが<宗教的要求>とい
う概念だと言えるでしょう」
●宗教は手段ではない
<宗教的要求>は「宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求
である」という一文で始まる。「私が」要求するのではない。自分に突きつけられるような
性格の要求である。
氣多教授が「西田の考える宗教についての要点が示されている箇所」と紹介するのが、
「我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない」
という表現だ。
自分の悟りや救いを求めて修行をすることは、自然な宗教への向き合い方だろう。「今の
ままではいけない」という思いがあって、自分自身の変革を求めていく。多くの場合、現
在の自分が苦しく、そこから救われたいという気持ちが、自分を動かす原動力となる。
つまり、救いや悟りという目的のための手段として座禅や念仏がなされるのだが、西田
はそうあってはならない、「宗教は人間の目的其者
そのもの
であって、決して他の手段とすべき者で
はないのである」と述べている。
●西田の考える理性と欲求、経験とは
第一編「純粋経験」第三章<意志>において、理性と欲求は同じ性質を持っており、「理
性の要求といっている者は更に大なる統一の要求である」と述べられている。理性の要求
というのは、個人の欲求を超えた普遍的なものを目指す要求だとして、同じような内容が
<宗教的要求>でも語られている。
「でも、本当に欲求と理性の間に対立はないと言えるでしょうか。理性ではこれはして
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はいけない、悪いことだと分かっていながらついやってしまう、どうしてもやめることが
できない、というのは日常的な経験ですよね」
しかし、西田はこの対立を容易に統一している。それについて、氣多教授は次のように
説明する。「西田にすれば、理性と欲求が対立するとど
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