山城国京都二条家文书目録.PDFVIP

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  • 2017-07-29 发布于上海
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山城国京都二条家文书目録

35M 45B 山城国京都二条家文書目録 解題……… …p.161 目次・…一 …・p.180 目録一一 一p.181 山城国京都二条家文書目録 解題 A.史料群記号  35M 45B         やましろのくにきょうと に じょうけもんじょ B.史料群名  山城国京都二条家文書 C.数  量 35Mは442点、桐製文書箱1個(43.5×36.8×44.Ocm)。         45Bは12、点1。 D.伝来の経緯 録文書12冊を古書店から追加購入した。 E.出所の歴史  二条家は藤原北家の嫡流九条家の分家で、五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の一つである。 鎌倉中期の九条道家の次男良実(1215~1269)が二条京極第を居所としたことから、二条を家名とした。                                       なりゆき また、銅駝御殿とも呼ばれた。良実以降の系図、および江戸期の14代昭実(1556~1619)から25代斉敬 (1816~1878)までの歴代年譜を参考資料に掲げた。昭実は、親徳川派の公卿として知られる。その子 康道(1607~1666)以降、二条家では代々徳川将軍の猶子となり、偏諌をうけるのを通例とした。江戸 時代の二条家の屋敷の位置は、今出川御門外一町東にあった。江戸時代の家禄は1708石5斗で、寛文 5年(1665)の朱印改めでは第1表のようになっている。  二条家の当主、および嫡子は、五摂家の家格に応じて朝廷における役務を果たした。摂家では7~                  ゆる 8歳で元服し、その日に「禁色雑砲昇殿を聴す」という宣下を受け、従五位下もしくは正五位下に叙 せられる。それから一段進んで推叙される越階により、近衛権少将、続いて権中将に進む。両官とも 左右8人づつの定員があるので、摂家の場合は定員外の任命となった。さらに、四位、三位と進んで 三位の中将となり、参議を経ずに権中納言、権大納言と進み、大臣が空くのをまってまず内大臣とな り、右大臣・左大臣・関白と進む。大臣・納言・参議は毎月朔日・15日に御礼に参内するのと、公事 に召された時に参仕する。これ以外に、納言以下は禁裏番役を勤めた。関白になると、毎日巳刻(午 第1表 二条家寛文五年領知村高 前10時頃)に参内して・八景間を詰所とし・議奏や武家伝奏と合議を              おこない、八ツ時(午後3時頃)に退出した。関白は通常5年から10 単位:石 山城国紀伊郡東九条村 520.0 年で辞職した(下橋1979)。江戸期には、昭実が関白(在職1585~91、 山城国愛宕郡西賀茂村 56.l 山城国葛野郡壬生村 lOO.8 大和国添上郡中庄村 342.3 近江国滋賀郡山中村 180.8 白(在職1863~66)・摂政(在職1867)に就いた。 近江国滋賀郡見世村 91.0 丹波国桑田郡細河村 399.4  25代斉敬の時に明治維新を迎えた。斉敬は維新後も京都に残り、 丹波国桑田郡田尻村 18.1 明治3年(1870)12月17日に京都府貫族となり、同日これまでの家禄 計 1708.5 を廃され、永世現米818石の朱印を与えられた。同4年6月5日に隠 出典:『寛文朱印留』下 居し、同5年4月25日から東京邸(東京第3大区5小区牛込津久土前 一161一 町19・20番)に滞在した後、同7 第2表 安政6年(1859)二条家年間必要諸紙内訳 年10月2日より京都邸(西京第11 紙種類 数量 代金 区今出川寺町西へ入、常磐石井殿 伊勢奉書(3匁8分)

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