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明德寺城
★『中世城郭研究』第19号、二〇〇五(二一〇~二一九頁)に掲載。
[報告]
明徳寺城
西村和夫
まえがき 城は、真田昌幸の沼田城攻めに重要な役割を果たしているにもかかわらず、これまであまり研究されていない。後述するように、既に山崎一氏の縄張図が公表されているが、現存する遺構と比較すると、櫓台や横矢の張り出しなど異なる部分も多い。発掘調査は行われていず、構造には未だ不明な点も多いが、基礎資料として簡易測量による縄張図を含め報告する。(なお、文中で敬称は省かせていただいた。)
立地 明徳寺にある。現在は、関越自動車道がすぐ脇を通っている。利根川、川の合流点の北側は、戦国期には沼田に近い利根川の渡河点だったので、川の東側にはこの明徳寺城が築かれ、西側には名胡桃城が、両河川の間には小川城が築かれていた。明徳寺城は、名胡桃城から利根川を挟んで北東に二キロメートルの位置にある。
少なくとも天正八年(一五八〇)三月には、月夜野竹之下と後閑との間に橋が架かっていた(1)。『加沢記』(2)巻之三「竹下合戦可遊【←手偏】斎武略并塚本働之事」には、竹の下の橋での同年同月の真田昌幸と北条氏邦との戦いが詳述され、より信憑性の高い『沼田根元記』(3)にも同年同所での戦いが記されている。年不詳であるが、「猪俣能登守諸処手合覚書」(4) に後北条家臣の猪俣能登守(名胡桃城事件の首謀者)が「こかんノ橋」を二日間防衛したことが記されている。この場所は、古くは「」とも呼ばれ、徒渉可能であった(5)。現在の月夜野橋の下流五百メートルの地点(6)であり、合流点の上流二百メートルである。明徳寺城は、ここから河原を北東に八百メートル行った丘上にある。
歴史 明徳寺城は後閑氏が築いたものであろうが、はっきりしない。沼田は、沼田氏滅亡後の上杉氏の時代を経て、天正七年に後北条氏が領有した(7)。
『加沢記』巻之三「昌幸公明徳寺の城責并美濃守忠信雲国寺之事」によると、天正七年十一月に北条氏邦は小川城、名胡桃城を攻めたが大雪のため鉢形城に退き、明徳寺城は、渡辺左近、西山市之丞、師大助らに守らせてあった。天正八年正月二十一日に、真田昌幸は、海野中務太輔を先駆として総勢七百余騎で夜のうちに利根川を渡り、「明徳寺の城」を攻めた。三十八歳の昌幸自ら大長刀で戦い、城外で迎撃した城代矢部豊後守以下二百余騎を破って、要害と下沼田まで放火した。明徳寺城には伊東備中守、出浦上総之介を残して、名胡桃城に引き上げた(8)。明徳寺城は、昌幸の沼田城攻めにおける利根川の橋頭堡となった。同年六月末には、沼田城が明け渡されている(9)。
廃城の記録は、管見では残っていないと思われる。天正年 () 豊臣秀吉によ、北条氏は名胡桃を根の地を安堵された。同年十月、沼田城代邦憲用水」を通している(10)。第二次大戦末には、城山の地下に中島飛行機小泉工場の組立工場があった(11)。
関越自動車道を造る際、県内部分について群馬県教育委員会の調査(昭和58~59年)があったが、城址の北側の部分は発掘調査対象から外された(12)。
城名の由来 『加沢記』には、「明徳寺の用害」、「明徳寺の城」として登場する。
南北朝時代末の元年(一三九〇)六月十五日に、後閑民部を開基とし天台宗の僧の松菴が元字沢浦(城の北二百メートルにある小高諏訪神社付近)に「年号をもって」湯泉山明徳寺を造立した(13)。享禄年間(一五二八~一五三二)には無住になっていたところを、付近の玉泉寺五世元助和尚(天文十年(一五四一)(14)。慶応元年(一八六五)に台風で倒壊し、明徳寺は城址西麓の現在地に移っている(図2)。
元号は現在「めいとく」と呼ばれているが、寺名も、多くの資料(15)の城名も第一字を「みょう」としている。
かつては天神山城と呼ばれていたという説もある(16)。
遺構の概要 尾根の先端が広がり南に向かってやや下り傾斜した場所に築かれている。城域は、南北280メートル、東西100メートル、比高50~65メートルである。大きいながらも基本的に単郭であり、東と南を高低差のある二重の土塁がめぐっていて、その間は横堀になっている。北部の二重土塁の外に小郭がある。遺構はよく残されているが、小郭の土塁と主郭の北西部および南端西側の土塁が破壊されている(17)。
現在、主郭内部は北から順に桑畑、笹薮、梅林、豆畑になっていて、東側中央に孟宗竹林がある。東側二重土塁の間の堀も孟宗竹林になっている。東側の城外は、現在は竹林であるが、かつては主郭内部とともに桑畑だった(18)。
先行研究 先人の研究として、山崎一『群馬県古城塁址の研究』(19)が挙げられる。それに加筆をしたと思われる『日本城郭大系』(20)の図を載せておく(図1)。さらに改訂した図が、『群馬県の中世城館
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