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第6回
平安京の時代
講師:東京都立松原高等学校教諭 戸川 点
?平安京の時代
平安京の時代
平安京は明治時代になるまで、1000年以上もの間、日本の都が置かれていた所です。今日はその平安京が作られた時代の話です。実は平安時代はとても長く、仮に「鳴くよウグイス平安京」の794年に平安時代が始まり、「いい国作ろう鎌倉幕府」1192年までが平安時代だとすると、398年間、つまり江戸時代より長く続いた時代なのです。そこで平安時代は3つに区分して考えるといいと思います。一つは平安時代の初め、中国から取り入れた律令に基づく政治を立て直していこうとする時代で、文化の面でも唐風文化、中国の影響をすごく受けていた時代。その次が平安時代の半ば、摂関(せっかん)政治が行なわれていた頃で、文化では唐風文化を吸収した上で日本風の文化が生まれた時代。そしてその次が平安時代の終わりごろ、院政が行なわれた頃で、武士も活躍する時代、この時代はもう古代ではなく中世だといわれています。では、今日のポイントを見ていきたいと思います。(1)平安王朝の成立桓武天皇から嵯峨天皇まで、新王朝ができて平安京が都として定まる過程をたどります。(2)律令制の変容律令制の行き詰まりと変容を、律令を補完するために出来た格式(きゃくしき)や令外官(りょうげのかん)などを例に見ていきます。(3)唐風文化と密教中国の唐風文化を受け入れたことと、真言まずポイント(1)の「平安王朝の成立」です。平安時代は桓武天皇が平安京に遷都して始まるといわれています。これ以前に桓武天皇は長岡京を造営し、さらに平安京へ遷都しました。これら二つの都の造営について見てみましょう。
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新都造営
桓武天皇は784年、奈良の都
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長岡京
長岡京は南北の朱雀大路をメインストリートに、東西4キロあまり、南北5キロあまりの大きさでした。長年発掘調査が進められ、国家的な儀礼を行った朝堂院(ちょうどういん)跡、天皇が政治を行なった大極殿(だいごくでん)の跡、桓武天皇が仮の内裏として住んだ東院跡などが次々と明らかになってきました。ところが造営開始から10年後、二度にわたる洪水で被害を受けたことなどもあって、桓武天皇は長岡京から平安京へと遷都します。
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平安京
平安京は、東西およそ4.5km、南北およそ5.2kmの規模を誇ります。古代中国の都にならい、北よりの中央に政治をおこなう大内裏を置き、そこからメインストリートの朱雀大路がまっすぐに伸びています。碁盤の目のように区分けされた町並みです。朱雀大路は道幅85メートルで、街路樹が植えられていました。大内裏のいくつもの門をくぐると、天皇が儀式を行なう大極殿がありました。桓武天皇を祀る平安神宮の社殿は、大内裏の建物のいくつかを明治時代に再現したものです。
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新王朝意識
桓武天皇はなぜ、長岡京から平安京へと、都作りにこだわったのでしょうか。その背景には、桓武天皇が「自分が新しい王朝を作る」という強烈な意識を持っていたことがあります。系図を見てください。桓武天皇は光仁天皇の皇子でした。奈良時代までの天皇は代々天武天皇の直系の子孫でしたが、その系列は称徳女帝を最後に途絶えてしまいます。そのために天智天皇の孫その後を継ぐのが桓武天皇でした。桓武天皇の父が天智系の光仁天皇、母親は渡来系の高野新笠(たかののにいがさ)でした。このように自身が天武系でもなく、渡来系の血も入っていることから、桓武天皇はことさらに「自分の王朝は新王朝である、自分は新王朝を作るのだ」と考えていたようです。そして自身の新王朝を築き、アピールしていくために二つの事業に力を入れました。それは、いわゆる「軍事と造作」です。「造作」とは、今見た新しい都づくりです。軍事とは、国家の支配する地域を広げるための軍事遠征です。具体的には、東北地方で蝦夷(えみし)との戦争を進めたのです。ではそれを見てみましょう。
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対蝦夷戦争
「蝦夷」とは主に東北地方に住み、律令国家の支配に入っていなかった人々を呼んだ言葉です。左の絵巻では差別的に描かれています。桓武天皇は、蝦夷を征服するための戦争を3度にわたって行ないました。789年の最初の戦いの際には、今の岩手県胆沢(いさわ)で蝦夷の軍と戦いました。この時は蝦夷の指導者アテルイの巧みな戦術により、朝廷側は巣伏(すぶし)の戦いで1000人以上の死者を出すという大敗北を喫します。
その後801年、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする3度目の遠征が行なわれます。田村麻呂は胆沢地域の蝦夷を制圧し、胆沢に支配の拠点となる城を築きました。こうした動きに、蝦夷を率いてきたアテル
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