第18章 金槐和歌集.pptVIP

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第18章 金槐和歌集.ppt

第18章 金槐和歌集 『日本文学史』高鹏飞 平山崇 著 作者 源実朝(1192~1219年)  鎌倉幕府の第三代将軍、源頼朝の次男である。 12歳の時、頼家が追放された後を継いで将軍となる。 13歳頃から作歌を始め、18歳で定家に入門し、歌作に励み、22歳で自分の和歌集を持った。右大臣に進んだが、後頼家の子公暁(くぎょう)に暗殺された。 作者 幕府の将軍でありながら公家文化を愛し、『新古今和歌集』を愛読した。 自分でも作歌し、それを当時最大の歌人である藤原定家に送って合点を依頼した。定家はこれに応え、自著の『近代秀歌』を贈った。和歌の歴史、作歌の方法論、本歌取りの技法などを簡潔に解説し、秀歌の実例を挙げたものである。 1213年11月には、更に秘蔵の『万葉集』を実朝に贈った。 定家の指導のもとで、源実朝は和歌の実力をつけていった。 成立 1213年の末に『金槐和歌集』を完成させた。 『金槐和歌集』の「金」は、鎌倉時代の「鎌」の偏を表している。「槐」は、大臣の異称である「槐門」から来ているので、『鎌倉右大臣家集』とも言われる。 しかしこの家集が成立した1213年当時、実朝の位階(いかい)は大臣ではなく、正二位(しょうにい)であり、右大臣となるのは1218年である。その直後に暗殺された。 ということは当家集はもともとは違う名称であった。その後、実朝が右大臣になったとき、『金槐和歌集』と名付けたのだ。 歌風?分類 『金槐和歌集』の所収歌の九割は、同時代の『新古今集』の影響を受け、他は万葉調である。 特に男性的な万葉調の叙景歌が優れている。約700首のうち25首が第9代勅撰和歌集『新勅撰和歌集』に採られている。最後の歌は『新古今集』の藤原家隆の歌「ながめつつ思うもさびし久方の月のみやこの明け方の空」を本歌取りしたものである。 分類は春?夏?秋?冬?賀?恋?雑となっている。 清新な叙景歌、武人の棟梁の立場から詠んだもの、自己の暗い宿命を見つめる歌など多様であり、代表的私家集である。 歌 ●いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたずぬる (母のいない子供が母を求めてさ迷う姿を見ると涙も止まらぬほど悲しい) ●はかなくて今よい明けなば行く年の思い出もなき春にやあはなむ (何もなく今宵が明ければ、去りゆく年の思い出がないまま、新しい春を迎える ことになってしまう) ●ながめつつ思うもかなしかえる雁ゆくらむ方の夕ぐれのそら (雁の列が夕暮れの空に消えていく。それを眺めていると、自分も悲しい思いに 駆られる) ※最後の歌は『新古今集』の藤原家隆の歌「ながめつつ思うもさびし久方の月のみやこ の明け方の空」を本歌取りしたものである。 研究課題 1.『金槐和歌集』の特徴を述べなさい。 2.源実朝の歌の実力について分かることを述べなさい。 3.源実朝と藤原定家の関係について説明しなさい。 4.鎌倉幕府の政治体制について簡潔に説明しなさい。 5.鎌倉文化について述べなさい。 1.『金槐和歌集』の特徴を 述べなさい。 『新古今集』の時代に作られたにも関わらず、万葉調の力強い歌を有していることが特徴である。 武家であり将軍である実朝が、公家文化である和歌を詠んだということも、興味深い点である。 2.源実朝の歌の実力について 分かることを述べなさい。 実朝には貴族?歌人の血が流れておらず、鎌倉には和歌の文化もなかった。しかし、当時最大の歌人である藤原定家から直接和歌の指導を受けることができた。歌論書『近代秀歌』で理論も学んだ。 こうして実朝は武家ながら、優れた歌を詠むことができた。 近代の正岡子規、斉藤茂吉が実朝の歌を高く評価している。 3.源実朝と藤原定家の関係に ついて説明しなさい。 藤原定家は源実朝の和歌に合点を付け、歌論書を贈り、秘蔵の『万葉集』も贈呈している。 そして『金槐和歌集』から25首を、定家は自身が選者となった『新勅撰和歌集』に収録した。 武家政権の時代では、公家の定家が武家の実朝に協力的になるのは自然のことである。それに、後鳥羽上皇は朝廷の復興を企んでおり、手始めに源実朝を取り込んで味方にしようと考えていた。実朝が異例の早さで右大臣に昇進したのもそのためである。 後鳥羽上皇の意向に定家が沿ったとしても不思議なことはない。 ただ、定家は政治よりも和歌に関心を置いていた。彼の日記『明月記』にも武家の争いごとは我関せずという記述がある。 武家の実朝が和歌に関心を持ったことに、定家は歌人として素朴な喜びを覚えたのではないだろうか。政治的企みで秘蔵の『万葉集』を贈ることはできまい。 4.鎌倉幕府の政治体制について 簡潔に説明しなさい。 1192年に鎌倉幕府を開いた源頼朝は1199年急死する。頼家(よりいえ)がその後を継いだが、独裁的

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