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「演劇,隠喩(メタファー),哲学」
─ ─143
翻 訳
「演劇,隠喩(メタファー),哲学」
オリビエ?アムール=マヤール 著
中 尾 充 良 訳
解 題
本稿は,2004年5月25日火に,第一回フランス語圏文化学研究会講演会(愛知
大学国際コミュニケーション学会主催)として行われた同名の講演をもととし,
その後著者による修正が加えられたものを訳出したものである。著者オリビエ?
アムール=マヤール氏は,ルーヴァン=ラ=ヌーヴ大学想像界(イマジネール)
研究センター所属の FNRS研究員であり,アンリ?ボショおよびマルグリット?
デュラスに関する著作を2004年に上梓している。(Olivier Ammour-Mayeur, Les
Imaginaires métisses―Passages d’Extrême-Orient et d’Occident chez Henry Bauchau
et Marguerite Duras, L’Harmattan, coll. Structures et Pouvoirs des Imaginaires)
哲学から演劇へ向かうのではなく,演劇から哲学へ向かうよう試みることはできないであろうか。
アンリ?グイエ,佐々木健一訳『演劇と存在』(未来社,1990年),p. 5.
アンリ?グイエを援用して論じられる本稿は,この演劇の哲学者の思想の継承発展を試
みるものであり,巻頭言(「哲学から演劇へ向かうのではなく,演劇から哲学へ向かうよう
試みることはできないであろうか。」アンリ?グイエ『演劇と実存』)を旗印に,それぞれ
のやり方で人間の条件についての問いを発しているこの二つの世界を読み解き,つなげよ
うと試みるものである。ここではとりわけ隠喩を媒介にした演劇と哲学との相互作用をた
どってゆくことを,もっと正確に言うのならば演劇テクストにおける哲学的なるものの隠
喩性について考察してゆくことを提案したい。
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愛知大学 言語と文化 No. 12
それゆえここで問題となるのは,シニフィアンの分析のために舞台上の登場人物の哲学
的な言説に全注意を傾けることではなく(たとえこれらの発話に向けられた注意を完全に
なくしてしまうことはできないにしても),舞台上に呼び出された登場人物の行為のマトリ
クスを通じて,テクストの単なる文学性とは異なる次元で明らかになる演劇実践のシニフィ
エに焦点をあててみることである。実際,演劇を哲学的なるものを隠喩化する演出の代表
的な場としてみなしうるのは(ここでは,私が哲学的な言説について語っているのではな
いことをよく理解されたい),アリストテレスによれば,隠喩(メタファー)というもの
は,眼下にしなければならない,言い換えれば言説をなすだけで満足していてはいけない
のであり,同時にイメージを作り出さねばならないからである。「もし『言説』がその『対
象物』を提示しないのならば,言説はその機能をはたしていない。」1)
したがって,演劇は本質的に詩作行為に発するところの登場人物が(上演の間じゅう彼
らを住まわせる身体を所有することによって)生きた肉体となる場であり,実際に,眼下
に,言説ではなく言説を支え言説に存在の力を与える身体を第一に置く総合的な隠喩の場
なのである。なぜなら,アンリ?グイエが言っているように,「世界観ぬき,世界に生きる
人間のイメージぬきには世界はない」2)からである。本研究では,演劇の本質を対象とする
理論(サルトル,グイエ)の分析,および現代作家(バディウ,シクスー,デュラス)の
作品分析をとおして,演劇ジャンルのモザイク化した身体が哲学者生成をなすことの根源
に存在する,演劇作品における多元的生成の思想を作り上げるつもりである。多元的生成
という言葉を,私は,演劇はおそらくそこで「生成」(すなわち,「存在」とは反対に,永
遠に変化し内的移 動を続けるもの)が多元的なものを受け入れることの結果としてこの
デプラスマン
世界のさまざまな側面を有する類稀な場である,という意味において理解する。また,哲
学者生成という言葉を通して,すべての象徴的,有意的な荷重をテクストにかけないで,
モザイク化した身体のさまざまな要素(テクスト,場面,役者,背景,演出,音楽やこれ
らの要素がその力を借りることのできるものすべて)を用いる作劇法について語りたいと
思う。
Ⅰ 哲学的演劇──「状況」の演劇
最初に,哲学的演劇とでも呼ぶべきものやそのような演劇の特徴を構成する諸要素に足
を止めてみる必要がある。実際,演劇というジャンルが人間の条件や人間存在の倫理上の
中心問題に関する奇妙な問いが形作られるジャンルであるということは必ずしも自明では
ない。すべての演劇作品が直ちにこの世界について問いただし,
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