- 3
- 0
- 约5.89千字
- 约 5页
- 2017-06-18 发布于湖北
- 举报
2010 年度 日本海学グループ研究支援事業
民族文化のルーツの2例の考察
日本海地域の民族音階のルーツは多様である
鉾木雄哉 ・ 中山妙子
Hokonoki Katsuya Nakayama Taeko
1.台湾民族
① 先史時代(1624年以前)
文字として記録が残る以前から台湾に移住していた人々を先住民と呼ぶ。
その中で、比較的早い時期から外来の影響を受けた民族を「平捕族」、日本戸統治時代ま
での外来の影響を受けなかった高山部や東部の民族を「高山族」、あるいは「高砂族」と
いう。
先住民は平捕族、高砂族のなかで、それぞれいくつかの少数民族に分類でき、それぞ
れの言語、風俗、習慣、家屋など異なる文化がある。近年の研究によって、平捕族と高
砂族の言語は、すべて南洋の島の語族であるオーストロネシア語族に属していることが
判明している。この語族は、東南アジア、オセアニアのいつくかの島と同じ語族に属す。
かつてマレーポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾の先住民との類似性がみられたこ
とで語族の概念が拡大し、オーストロネシア語族と呼ばれるようになった。
② オランダ植民統治時代(1624年~1662年)
先住民に大きな外来の影響を与えた最初の外来の力は、17 世紀のヨーロッパによる
ものであった。ヨーロッパから最初に記録されたのは、マカオを東方の貿易拠点として
いたポルトガル人である。彼らは、縁があふれる台湾を「麗しの島」と呼んだ。実際に
上陸したのは、ポルトガルとマカオを奪い合って敗れたオランダで、1624 年に中国の
協力を得て、澎湖諸島に築造された砦を撤去し、それを台湾の安平へと移した。一方、
フィリピンのセブ島に拠点を置いていたスペインは、1626年に台北に入り、基隆と淡
水を拠点とし、砦と居住地区を設けた。
1624年、オランダはスペイン人移住地区に侵攻した。その結果、スペインは去り、
オランダはスペインの建てた砦を基に砦を築きあげた。オランダはまた、台南にゼーラ
ンジャ城、砲台、ゼーランジャ市街、プロビンシア城、プロビンシア市街などを、1624
年から 1662年にかけて築いた。それは台湾で最初の都市計画と大規模建物の建設であ
った。当時のオランダ人が制作した「番社戸籍表」によると、彼らの管轄する先住民は
6 万人を超えていた。これは、当時の先住民の4~5割を占めていたと推測される。こ
の時期にオランダ人がもたらしたものにローマ字がある。このときの文字を「新港文字」
2010 年度 日本海学グループ研究支援事業
という。新港文字は、オランダ人が台湾を去って以降も、少なくとも150年間は使い続
けられた。オランダ人がもたらしたもう一つ重要なものに、漢人の移民がある。オラン
ダ人は、稲と砂糖の栽培を行うために中が高から台湾への漢人の移住を奨励した。それ
により、漢人の人口は最も多い時で3~5 万人に上った。その他にオランダ人は、モノ
と土地を交換して台湾の土地を自国の会社の財産とすることにより、台湾に土地所有制
度ももたらした。
③ 鄭氏政権時代(1662 年~1683年)
1644年、オランダが台湾を拠点とする際、中国は明王朝から清王朝への交代に直面
していた。言い伝えによると、鄭氏一族はオランダ人が台湾に来る道案内をしており、
明の復興を望んだ鄭成功は、清に対抗する道を選び、清との戦いに備えて一族が熟知す
る台湾に拠点をおくことを思いついたと言う。
1662年、鄭成功は、台湾に住む漢人の助けも得て、オランダに勝利する。鄭氏に敗
戦することは、オランダにとって想定外の出来事だったようである。
鄭氏一族は、清朝との戦いで和夫王の軍隊を台湾に連れてくると共に、多くの移住者
を募集した。その結果、それ以降の20 年間で、台湾の漢人の人口は約10数万人まで増
え続けた。当時の先住民は約12 万人なので、その人数を超えるほどの勢力になったこ
とが知られる。このときに台湾に移住した漢人は、主に現在の福建と広東の両省から来
た人々であった。
鄭氏一族は、オランダの貿易産業を継承すると同時に、中国の法令制度や建築技術に
習い台湾でレンガを作り、それを使って学校、文武廟、寺廟を建てた。また、オランダ
原创力文档

文档评论(0)