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新泻地震
新潟地震
●概要
日時:昭和39年(1964年)、6月16日、午後1時分新潟県の粟島南方沖40KmM関東大震災(7.9)に匹敵新潟?秋田?山形各県被害状況:死者29名負傷者510名全壊家屋3,557戸(うち160戸全焼)半壊家屋1万2237戸浸水戸その他24,000余箇所の通信施設損壊や船舶?道路、鉄道の被害も多かった昭和年(年)月日、午後時02分、新潟県の粟島南方沖40Kmを震源とするM の地震が発生し、震源に近い新潟周辺は震度6の烈震に襲われた。この地震で新潟、秋田、山形の各県を中心に、死者29名、負傷者510名、全壊家屋3,557戸(うち160戸全焼)、半壊家屋1万2237戸、浸水戸などの大きな被害を出した。その他24,000余箇所の通信施設損壊や船舶?道路、鉄道の被害も多かった。仙台管区気象台は1315分、東北地方の日本海沿岸と陸奥湾に津波注意報を発令。新潟県沿岸の津波高はに達し、信濃川を遡り一部で氾濫し市内を水浸しにした。また、震源付近の粟島が約隆起した。 新潟市内では国体に合わせて造られた昭和大橋の崩壊、鉄筋コンクリートの県営住宅倒壊、昭和石油新潟製油所のタンク火災などが注目を浴びた。昭和石油のタンク火災はスロッシング現象によるもので、火災は7月1日17時に鎮火するまで黒煙が空を覆い、余震に怯える市民を一層不安に陥れるとともに、周囲の民家160戸を類焼させた。この地震による火災は9件発生したが、昭和石油以外は大事には至らなかった。 地震発生5日前に新潟国体が終了したばかりで、もし開会中であったらさらに大混乱になったことが予想された。この地震では、各地で顕著な液状化現象がみられ、鉄筋コンクリート造りの基礎杭やコンクリートの耐震性不備が露呈し、建築基準法改正、地震防災対策に教訓を与えた。新潟地震は日本の防災対策を促進する契機となった地震である。
新潟市浸水状況図(昭和39年6月16日当時)ゆっくりと倒れていく県営アパート。液状化問題を浮き彫りにした出来事だった。
竹下隆治さん(当時:県庁衛生部勤務)その日の午前中、県立新潟病院での検査を受けた竹下さんは、自宅である県営アパート4号棟4階へ戻り、奥さんと昼食を共にした。午後からの仕事の前のくつろぎのひとときだった。だが、それは悪夢のようなできごとの前の静けさだったのかもしれない。 グラッ。揺れを感じたかと思うと、その鉄筋コンクリートの立派な建物は、静かに、ゆっくりと倒れはじめた。「本当にゆるやかに、まるで土にズブズブともぐっていく感じで倒れていきました。私たちが背にしている壁が、徐々に地面に近づいていく。セトモノやら、ナベやらが前方から飛んでくる。仰向けのまま、なすすべがありませんでした」 死の恐怖などは感じなかったという。タンスなどの大きな家具は、すべて倒れた側にあったため、じっと、ただ倒れきるのを待っていたのだという。動きが止まった時、4階の窓のすぐ下が地面だった。竹下さん夫婦は、窓から外に出た。建物が根元から倒れたわりには、竹下さんの部屋の窓はすぐに開いた。建物の損傷というよりは、地盤そのものの弱さがもろに出てしまったのだ。新潟地震の特徴である液状化現象が最も顕著に出た例、と言っていいであろう。竹下さんの住む4号棟が一番の被害を受けていた。県営アパート8棟のうち、傾いたのは2棟。他の棟は地下室を備えていたり、低い建物であったりしたことから、ほとんど被害がなかったのである。「津波が来るというので、私たちは白山駅周辺の線路へ避難しました。その日の夕方には明訓高校の体育館に避難所が設けられ、そこで2~3日生活していたでしょうか。その後関屋田町の親戚の家にお世話になり、1週間ほどたって代替地である寺尾のアパートに引っ越したのです」 竹下さんは、地震の翌日から通常通り出勤した。当時、県庁の衛生部に所属していたことで、地震後の救護班として山の下方面の救護にあたったのである。「とにかく今度は地盤のしっかりした所に家を建てよう。そう思ってました。砂に埋まっていくようなあの感じは、もう味わいたくないですから」 県営アパート傾斜は、そこに住んでいた人々はもちろんのこと、他の人々に対しても、多くの教訓と示唆を与えた。今までの地盤に対する考え方も、この時、崩れたといってもいいだろう。液状化現象ということが盛んに言われるようになったのは、このことをきっかけとしてである。建築の歴史にとって、新たな1ページを記すショッキングな出来事だったのである。
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