谷崎润一郎刺青日文.doc

刺青 谷崎潤一郎 それはまだ人々が「愚か」という尊い徳をもっていて、中が今のように激しく軋みあわない時分であった。当時の芝居でも草双紙でも、すべて美しい者は強者であり、醜いものは弱者であった。誰もがこぞって美しくなろうと努めたあげく、天稟の体へ絵の具を注ぎ込むまでになった。芳烈な、絢爛な線と色がそのころの人々の肌に躍った。 　清吉という若い刺青師の腕ききがいった。刺青会で好評を博すしせいの多くは彼の手になるものであった。元浮世絵師の渡世をしていただけに、刺青師に堕落してからの清吉にもさすが画工らしい良心と鋭敏さとが残っていった。彼の心を惹きつける皮膚と骨組みとをもつ人でなければ、彼のしせいを購うわけにわいかなかった。たまたま描いてもらえるとしても、いっさいの構図と費用とを彼の望むがままにして、そのうえ堪えがたい針先の苦痛を、ひと月もふた月もこらえねばならなかった。　 　この若いしせい師の心には、人知らぬ快楽と宿願とがひそんでいた。彼が人々の肌を針で突き刺すとき、真紅に血を含んで脹れ上がる肉の疼きに堪えかねて、たいていの男は苦しい呻き声を発したが、その呻き声が激しければ激しいほど、彼は不思議に言いがたい愉快を感じるのであった。　 　彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を刺り込むことであった。その女の素質と容貌にはいろいろの注文があった。ただ美しい顔、美しい肌のみでは満足できなかった。まだ見ぬ人の姿かたちを心に描き、三、四年は空しく憧れながらも彼はなおその願いを捨てずにいた。　 　ちょうど四年目の夏のとある夕べ、深川の料理屋平清の前を通りかかったとき、彼はふと門口にまっている駕籠の簾の陰から真っ白な女の素足のこぼれているのに気がついた。鋭い彼の目には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情をもって映った。その女の足は、彼にとっては貴い肉の宝玉であった。親指からおこって小指に終わるさいさいな五本の指の整い方、江ノ島の海辺で獲れる薄紅色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足をもつ女こそは、彼が長年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われた。清吉は躍りたつ胸をおさえて、その人の顔が見たさに駕籠の後を追いかけたが　二、三町行くと、もうその影は見えなかった。 　清吉の憧れの心地が、激しい恋に変わってその年も暮れ、五年目の春も半ば老い込んだある日の朝であった。清吉のなじみの辰巳芸伎から使いがよこされた。使いの娘は、近々に私の妹分としてお座敷へ出るが、私のことも忘れずに、この娘も引き立ててやってくれと認めてある手紙を渡した。 　清吉は、しげしげと娘の姿を見守った。年のころは十六か七かと思われたが、その娘の顔は、不思議にも長い年月を色里に暮らして、何十人の男の魂をもてあそんだ年増のようにものすごく整っていた。それは国中の罪と財との流れ込む都の中で、何十年の昔から生き代わり死に代わったみめ器量であった。 「おまえは去年の六月ごろ，平清から駕籠で帰ったことがあろうがな」 　「ええ、あの時分なら、まだお父さんが生きていたから、平清へもたびたびまいりましたのさ」と娘は奇妙な質問に笑って答えた。 　「足かけ五年、おれはおまえをまっていた。顔を見るのははじめてだが、おまえの足には覚えがある。見せてやりたいものがあるから、上げってゆっくり遊んでゆくがいい」と、清吉は帰ろうとする娘の手を取り、大川二臨む二階座敷に案内し、巻物を二本取り出し、まずその一つを娘に前に広げた。 　それは古の暴君　纣王のちょうひ　末喜を描いた絵であった。瑠璃珊瑚をちりばめた金冠の重さにたええぬなよやかな体を、ぐったり匂欄にもたれて，羅綾の裳裾を階の中段にひるがえし、右手に大杯を傾けながら、今しも庭前に刑せられようとする犠牲の男を眺めている妃の風情といい、鉄の鎖で四肢を銅柱へ縛いつけられ、最後の運命を待ち構えつつ、妃の前に頭をうなだれ、目を閉じた男の顔色といい、ものすごいまでに巧みに描かれていた。 　 清吉は「この絵の女はおまえなのだ。この女の血がおまえの体に交わっているはずだ」と、さらに、他の一本の画幅を広げた。「肥料」という画題であった。画の中央、若い女が桜の幹へ身を寄せて、足下に累々と斃れている多くの男たちの屍骸を見つめている。女の身辺を舞いつつ凱歌を歌う小鳥の群れ、女の瞳にあふれた抑えがたい誇りと歓びの色。それを見せられた娘は、我が心の底に潜んでいた何ものかを、探り当てた心地であった。 「これはおまえの未来を絵にしたのだ。ここに斃れている人たちは、皆これからお前のために命を捨てるのだ」 　こう話す清吉に、娘は「親方、どうか私を帰してくおくて。お前さんの側にいるのは恐ろしいから」と何