广岛兴行场施设别略年表-战前编-广岛.PDF

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广岛兴行场施设别略年表-战前编-广岛

広島興行場施設別略年表 -戦前編- 広島興行場施設別略年表 -戦前編- 柳 下 登 志 子 (被爆 70 年史編修研究会事務局) 市民の娯楽の場である映画館や劇場。被爆前、201 を数えた映画館・劇場は、被爆により壊滅的な被害を受 けた。しかし、終戦から5年後の昭和 25(1950)年には 18 館 2 に、さらに戦後の復興とともにその数は増加し、 昭和 35(1960)年頃には常設映画館だけでも 64 館 3 となり、広島の興行施設はピークを迎えた。 映画館や劇場の変遷は、市民の暮らしと街の移り変わりを写し出すものでもある。昭和 14(1939)年の『大 4 日本職業別明細図 / 大広島市』 では、現在は平和公園となっている中島本町に映画館「高千穂館」と「世界館」 の名がある。どちらも勧商場に設置された寄席から活動写真館に転換したものであるが、八丁堀や新天地に見 られる映画館は、はじめから活動写真常設館として作られたものが多く、市内電車の開通や新天地の開業によっ て繁華が東へと移っていったことがうかがえる 5。 この略年表では、明治から終戦までに広島の映画館・劇場・寄席等の興行施設がどう移り変わったかを、『新 修広島市史4巻 文化風俗史編』の記述を中心に、施設ごとにまとめている。施設によっては設立時期や閉館時 期が不明のままとなっているが、戦前の広島の市民文化の変遷を知る資料として参考にしていただきたい。 【小網町・西遊郭】昭和14年ごろの地図(巻末出典参照) 【中島本町】同左 飲食店に混じって寿座、有楽館の名が見える。 メイン通りに沿って、高千穂館、世界館の名が見える。 写真1 昭和10(1935)年頃の昭和シネマ 中島集産場の第一・第二世界館が一つになってできた活 動映画常設館「世界館」は、昭和7(1932)年頃「昭和 シネマ」と改称、洋画専門館となった。昭和シネマはそ の後再び「世界館」に改称した。 - 45 - 広島市公文書館紀要第29号(平成28年6月) 【八丁堀千日前】同前ページ 【新天地界隈】同前ページ 写真2 東洋座(手前)と太陽館 大正2(1913)年頃、千日前に活動常設館として開設 写真3 大正10(1921)年 開館した頃の日進館 新天地の開場とともに洋画専門館として開館。「広島東 亜倶楽部」を経て「花月」へ。 〈略年表凡例〉 1 資料は表末の出典資料一覧のとおりである。使用方法は以下による。   ・『新修広島市史』の記載事項を中心に、他の資料を補足的に使用した。   ・資料によって記述が異なる場合は、作成が古く詳細である資料を出典として使用した。   ・『映画年鑑』については、変化のあった年の記事を使用した。同一施設について同じ情報が複数年にわたって記載さ れている場合は、運営期間の裏付けとなる時期の記事を選択して使用した。 2 興行施設ごとに番号を付してその変遷を記載した。施設は最終確認時点の地域によってまとめた。 3 映画館、劇場・その他、寄席の区分は、『新修広島市史』の記載内容によったが、同書に「映画館」と明記されていな い場合であっても、『映画年鑑』に「映画館」、「活動写真館」として記載されている場合は「映画館」に区分した。 4 施設名称は正式名称と思われ

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