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多民族国家と地方都
多民族国家と地方都市
はじめに
植民地化以降の東南アジアの一つの重要な特徴として、ファーニヴァルのいう複合社会、即ち、質を異にする文化を持つコミュニティーが融合せずに併存するモザイク的状況をあげうるとすると、植民地期に東南アジア諸地域に生成してくる都市は、それに対して、どのような機能を果たしたと考えられるのだろうか。
本章で都市の事例としてとりあげるクアラ?カンサルが位置するマレー半島は、19世紀後半からの錫鉱山開発や20世紀初頭からのゴムプランテーション開発に示される世界市場に直接リンクした一次産品の展開過程で、中国南部、南インド、および近隣の諸地域から短期間に大量の移民を受け入れた地域である。それらの移民は、言語、信仰、生活慣習の全てにわたり、古くから独自なものを築き上げてきた集団であり、マレー人とは全く異質な文化を携えてマレー半島にやって来た。複合社会の特徴である非融合性という意味でも、移動先の生業について、錫鉱山では中国人が、ゴムプランテーションではインド人がそれぞれ卓越し、居住空間に関しても、ゴムの比重を高めつつも米や果樹などの自給性の強い作物を中心にしていたマレー人の村落(カンポン)と並んで、相互に隔絶して併存していた。こうした結果として、植民地時代のマレー半島には、まさに典型的なモザイク状況が出現したと言える。
マレー半島の地方都市は、主としてこのような集団と生産と居住空間のモザイクの間を枝状につなぐ商品交換ネットワークの節々に出現した。地方に散在して成長してくる都市は、鉱山やプランテーション、村落を、世界的な商品?金融ネットワークに結節させていく歴史的役割を担っていたと言える。そのため、都市には、それらの一次産品を世界市場へと結びつける商業関係者や、貨幣経済への急速な移行を支えた金融業者が集まり住んだ。加えて、植民地支配下に成長してくる都市には、商取引のための装置だけではなく、支配のための装置も配置された。行政機関に加えて、植民地官吏のための住居、病院、学校、宗教関係者などが暮らす空間が配置され、その結果、旧支配層、あるいは都市の雑業層が集まり住む空間も生まれた。
都市は、このように、植民地支配下で急速に成長してくる世界にリンクされた新たな生産関係、社会関係に自己の現在と将来を託す人々が集まる空間であったから、その住民には、近隣の村落からだけではなく、海外から移動してきた人々も多く含まれていた。そして、これらの出自を異にする人々は、地政的条件と生産、交通条件によって規定される限定された空間としての都市の中に、近接して生きることになった。
このような、限定された空間に様々な集団が接近して暮らすという事態は、空間的近接性という点に限れば、マレー半島一般のモザイク状況とは異なるものと言える。複合社会論においては、モザイク化された複数のコミュニティーは、市場においてのみ交流関係を持つとされるのであるが、マレー半島の地方都市は、その具体的な空間とみなすことが出来るであろう。
以上のような図式から本章での課題をあげるならば、地方都市での空間的な非モザイク状況が、マレー半島全体のモザイク状況とどのように関係しているかという問題を歴史的に検証することになろう。本章では、はじめに都市空間の形成過程について、マレー半島の一地方都市クアラ?カンサルでの住居地と商店街の過去100年余の取引関係に関する資料を基にして叙述する。そして、地方都市が、そこでの諸コミュニティーの空間的近接性にも関わらず、マレー半島全体のモザイク状況をむしろシンボリックに示すものになっていることとその要因について論じよう。
クアラ?カンサルの空間構成
イギリスは、18世紀末から19世紀初めにかけてペナン、マラッカ、シンガポールを次々と支配し、インド、中国へとつながる海上交易の東南アジアでの橋頭堡を確保した。海峡植民地として統合されることになるそれらの港市は、しかしあくまで交易ネットワーク上の点にしか過ぎなかった。イギリスが領土獲得へと動き、獲得した土地で殖産興業を図って植民地経営を行なおうとするのは19世紀後期からである。
現在の西マレーシアのほぼ中央部にあるペラ地域は、錫生産によって、19世紀の半ばから注目を集めた。錫が本格的に採鉱されるのは1848年のロン?ジャッファル(Long Jaffar)によるラルット(現タイピン)での鉱脈発見以来であり、それをきっかけに中国人クーリーが大量にペラ地域に入り込んだ。1874年の年次報告によれば、ペラの人口は3万3千人で、そのうち中国人が2万6千人を占めていたという[Report on Larut for the year ending 31st December, 1874, From H.B.M. Assistan
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