人間科学における主観的言説の重要性.pdfVIP

人間科学における主観的言説の重要性.pdf

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集団力学 2009 年 第 26 巻 pp.01-13 人間科学における主観的言説の重要性 1 杉万俊夫 (京都大学) 要 約 人間が知ろうと知るまいと存在する事実を探求する自然科学においては、研究対象を一線の 向こう側に据え、研究者は一線のこちら側から研究するのに対して、もう一つの科学、すなわ ち、人間科学においては、当事者(研究対象)と研究者が協同的実践を展開し、そこから知識 を紡ぎ出す。本稿では、科学を、言説空間を豊かにする営みと捉えた上で、自然科学と人間科 学の言説空間の違いを、廣松(1979, 1982)の言語論・判断論を援用して明らかにした。すな わち、言説空間の構成を、「人称的(指示・述定・表出・喚起) 没人称的(指示・述定)」 の軸と「知覚現場的言説 概念思考的言説」の軸によって整理し、自然科学の言説空間は、 没人称的な知覚現場的・概念思考的言説によって構成されるのに対し、人間科学の言説空間は、 準没人称的あるいは人称的な知覚現場的・概念思考的言説によって構成されることを論じた。 これによって、両科学が共同研究を行う場合の人間科学の守備範囲を明確にするとともに、と りわけ、人称的な知覚現場的言説、すなわち、主観的言説が人間科学の言説空間で重要な地位 を占めることを指摘した。 キーワード :主観的言説、人間科学、自然科学、人称的・没人称的言説、知覚現場的・概念思 考的言説 1.フーコー的権力と科学 現代の権力において、権力を振るう者と権力にひれ伏す者の単純な区別は存在しない。 社会の一人一人が、皆、権力を振るうと同時に権力にひれ伏してもいる。へたに権力者を 指さしても、その指先は遠大なループを描いて、自らの背中を指さすことになる。まさに、 社会が社会に対して権力を行使しており、皆、その権力作用の中に織り込まれている。こ のような「社会が社会に対して」という再帰性を特徴とする社会スケールの権力作用は、 フーコー的権力と呼ばれている。 現代社会の問題解決は、もはや悪の権化たる権力者の打倒によっては完遂されない。当 面、打倒の対象となる人物や組織があろうとも、その打倒は最終的な問題解決を意味しな い。なぜならば、他ならぬ自分自身も、打倒の対象の片棒を担いでいるからだ。また、悪 の権化などと述べたが、そもそもフーコー的権力に織り込まれている身にとって、悪の覚 識(問題の覚識)は容易ではない。 歴史的に、フーコー的権力は、個の確立と相即的に進行した。個の確立とは、皮膚で画 1 京都大学大学院人間・環境学研究科 sugiman@toshio.mbox.media.kyoto-u.ac.jp 1 された肉体の内部にあるとされる心(あるいは頭)でなされる思考や判断を格段に重視す る人間観、すなわち、個人主義の確立である。個人主義において、心は、思考や判断がな される格別に重要な座とされ、それは人間の本質とも言える部分とされる。しかし、われ われにとって個人主義がいかに自然な人間像に見えようとも、それが近代という時代の産 物であることは銘記しておかねばならない。実際、日本社会を顧みるに、江戸期(わずか 100 年ちょっと前)までは、そのような個人の観念はほとんど存在しなかった。明治に入 り、欧米の書物に出てくる individual を訳そうにも適当な日本語がなく、「個人」という 造語があてがわれた。同様の事情で、多数の individual が契約関係のもとに形成する society には、「社会」という造語があてがわれた(柳父 1982 )。 したがって、現代に生きるわれわれがフーコー的権力に織り込まれると言っても、人々 が集団催眠にかかるがごとくに巻き込まれているのではない。人々は、まさに、個人とし て、自らの心で(あるいは、自分の頭で)思考し判断しつつ、フーコー的権力に織り込ま れている。いや、むしろ、思考・判断するからこそ、フーコー

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