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鬼と河童の差別論-森栗茂一のコミュニティコミュニケーション.doc
鬼と河童の差別論? 森栗茂一
1 はじめに
民俗学の研究,なかでも民話研究においては,昔話や伝説の構造分析や分布論,伝承形態論,比較文化論,伝播定着論,歴史形成論に終始する傾向がなかったか。それはそれで人文科学としては意味のあることであろう。しかし,そうした研究の意味を現代に生きる我々の社会と生活の有り様との関わりで究明する姿勢が,従来,等閑視されてきたのではないか。民話が我々の生活文化のなかにあり,民俗学が民衆の自らを知り,柳田国男的に言えば「賢く生きる学」であるとするならば,民話の意味は我々の今の生活のなかに位置づけられるべきことであろう。
従来,民話のメルヘン性,民衆性が,形而上的に強調されてきたが,実際の社会の生活感覚との関わりで論じられることは少なかった。この点,民話のなかに潜む差別性に着目した赤松啓介の『非常民の民俗文化』(1) は特筆すべき業績である。赤松は,従来の柳田民俗学が対象としてこなかった性と差別について,階級的視点で民話の社会科学を始めたのである。
しかし,個別の物語のなかの差別性ではなく,民話に登場するキャストやシチュエーションそのものに対する社会的意味を問うことを,ここでは意図する。本論では,とくに鬼や河童そのものの,日本文化における位置づけ,被差別性について論述したい。この場合,鬼や河童に関する独特の地域社会分析の視点で,その意味を問うてきた若尾五雄の成果に基づいて展開する。
2,鬼の系譜
折口信夫おりくちしのぶ は春来る鬼として,祝福をもたらす鬼を紹介し,追われる鬼以外に本質があると論じた(2)。 民俗学ではこれを,予祝の鬼,春をもたらす鬼,ひいては祖霊であると論じ,穢れを所有する鬼,追われる鬼とは区別してきた。柳田国男はこうした鬼の一部に山人や漂白の人々の存在を指摘した(3)。
穢れの鬼としては,『今昔物語』(巻27「於播磨国はりまのくに印南野いなみの殺野猪語のいのをころすはなし第卅六話」)より,死者の脇に存在する死をもたらす鬼(凶癘魂)が存在するという指摘がある(4)。また,死後の魂が鬼になるとの指摘もある(5)。 これらはいずれも,怨念をもった霊,すなわち怨霊と関係しており,平安期以後の御霊信仰との関わりで理解すべきことであろう。
しかも,こうした死をもたらす鬼は,道教に組み込まれた陰陽道の鬼門の思想による。丹生谷哲一によれば,平安京?藤原宮や大安寺?薬師寺?山階寺などにおいて,まさに鬼門の位置に,官奴司や賤院など奴婢関係施設が配置されている。かかる古代道教的卑賤観が,平安以降の触穢思想の進展過程で死穢のケガレ観と結びつけられ,中世賤民性にもたれこんでゆくのであるという指摘(6) に注意してみると,まさに,畏怖,ケガレの鬼こそは,差別の基層であることがわかり,それは退治されるべき
ものであった。
多田道太郎は鬼ごっこを分析して「おそるべきものの追跡とおびえるものの逃避である」とし(7) ,それはまさに鬼ごっこの原型である「子とろ子とろ」に於ける神隠し的な意味での,死と再生を意味すると飯島吉晴はいう(8)。 人類学はかく分析するが,何故,鬼は嫌われたのであろうか。鬼とは,日本社会のなかでどのようなものを指したのか。この点を直視する必要があろう。
3,退治せられる者としての鬼(桃太郎)
網野善彦は『邦訳日葡辞典』の「異類異形」が「動物の様々な種類」といっている点を指摘して,中世末?近世初頭におけるこの言葉の差別性を指摘し,それは「鬼」に通じると指摘している(9)。
この網野の指摘を,結果的に実証していたのが若尾五雄である。若尾の興味深い論考に吉備津彦の温羅退治の伝説分析がある。桃太郎伝説の起源といわれるこの伝説は、鬼ケ城に籠もる温羅が吉備津彦に殺され,首を犬飼武の指揮下の犬に食われるという話である。その髑髏も唸るので,妾の阿曽(あぞ)の女に彼の釜を護らしめ,その下に彼の首を埋めたという。釜には鬼の鋳着がある。鬼の血は赤く流れたのでこの川を血吸川という。
阿曽は鋳物師村であり,若尾はこれを金工の伝説であるとの説を昭和38年から提唱していた(10)が,負けた温羅が何故鬼とされたのかについては,鬼は隠であり,隠は地中の鉱物であるという。若尾の指摘によると,鳥取県日南町の楽々福神社の鬼退治の場合も砂鉄に関連していたが,鬼退治をする第七代孝霊天皇は吉備津彦の父であった。若尾によれば,吉備とは厳(きび)のことであり,堅い鉱物のことだという。
それは解字からの一つの視点であったが,若尾は何事も字義と鉱物という物質で理解するあまり,その鉱物を巡る人間関係,すなわち差別などの問題については考察が及んでいない。
物語から民俗的歴史(11)を推
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