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明治期日本と〈国語〉概念の確立
明治期日本と〈国語〉概念の確立
明治期日本と〈国語〉概念の確立
─文学者の言説をめぐって
増田周子
はじめに
明治新政府が発足すると、さらに欧米化政策が進んだ。それに伴い、話し言葉や書き言
葉をどのようにするか、の問題を考察していった。漢字廃止を説く人々、ローマ字を国字
とすべきという集団、仮名文字を国字として使用すると主張する集団など、明治期は激動
の時代であった。文学者についてはどうであろうか。坪内逍遥は、自ら英語塾を開設し、
英語教育の重要性を説いた。また、明治期の新聞や文学者の間で、文語文体からの脱却を
試み、一気に口語文体を用いる言文一致の動きが加速した。翻訳や翻案が登場し、その中
で、「です・ます」調が生まれたり、様々な口語文体が模索されたりした。
一方、明治元年 9 月に皇学所および漢学所の設立が決定され、明治政府の欧米化政策と
は裏腹に、依然として漢文教育も行われていた。英語の重要性を説いた坪内逍遥は、漢
文・漢字問題にも関心を持っていた。すなわち、明治の開化期には、何を国字とするかに
ついて、真剣に検討され、外国語教育と漢文教育のはざまで揺れ動いていた。そのような
時代の中で、文学者もそれぞれの立場で多くの発言を行ったのである。
本報告では、明治期の〈国語〉問題をめぐる動きを歴史的にとらえ、日本文学者の言説
を中心に、〈国語〉問題をどのように考え、〈国語〉概念を確立していこうと模索したのか
をとりあげていきたい。
1 明治初期の〈国語〉に対する動きと漢学・漢字問題
徳川時代、公的な文書は、かなりの割合で漢文が使用されていた。しかし、幕末以降、
欧米の思想が受容され、浸透してくるようになると、それら漢文・漢字については、その
必要性を疑問視する声が大きくなった。慶応 2 年 12 月、開成所翻訳筆記方の前島密は、
「漢字御廃止之議」を江戸幕府 15 代将軍徳川慶喜に送った。
国家の大本は国民の教育にして其教育は士民を論せす国民に昔からしめ之を昔からし
めんには成る可く簡易なる文字文章を用ひさる可らすその深遠高尚なる百科の学に於
けるも文字を知り得て後に其事を知る如き難渋迂遠なる教授法を取らす渾て学とは其
事理を解知するに在りとせさる可からすと奉存候果して然は御国に於ても西洋諸国の
315
増田周子
(仮名字)
如く音符字 を用ひて教育を布かれ漢字は用ひられす終には日常公私の文に
漢字の用を御廃止相成候様にと奉存候漢字御廃止と申候儀は古来の習用を一変するの
1
みならす学問とは漢字を記し漢文を裁するを以て主と心得居候
この建白書の中で前島は、国家発展の基礎が教育にあると説き、国民教育の普及のため
には学習上困難な漢字・漢文を廃止し、仮名文字を用いて、最終的には公私の文章に及ぼ
すべきことなどを説いた。さらに前島は、口談と筆記を一致させること (口語体の採用、
言文一致の創唱) などについて力説したが、必ずしも漢語を廃止しないこと、文法の制定
や辞書の編集によって、表記上の混乱を避けるべきであるとした。とにかく、難解な漢字
を廃止し、平仮名を国字にしていこうという動きである。
次いで、明治 2 年 5 月、前島密は、「国文教育之儀ニ付建議」を衆議院に提出する。教
育の普及のために、国字国文改良実施の具体策を説いた。これらが、国字改良の先駆であ
るとされている。それらを受けて、明治 5 年「学制」発布に伴い、前島密は、「学制御施
行に先ず国字改良相成度卑見内申書」を岩倉右大臣と大木文部卿に提出した。一方、柳川
春三は、布告書を仮名で配布することを建白した。しかし、どちらも受け入れられなかっ
たのである。
また、明治 5 年、ローマ字採用を主張す
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