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日本语文法と存在论
日本語文法と存在論
山田文法と和辻哲郎の批判
日本語のあらゆる文の中核に存在文を据える、という本研究のベースとなる主要な先行研究として山田孝雄から川端善明に継承された文法論を挙げることができる。山田孝雄は、文とは通俗的には「思想が言語によりてあらわされたもの」であり、厳密には「統覚作用によりて統合せられたる思想が、言語といふ形式によりて表現せられたるもの」(『日本文法学概論』p902)と定義している。ここにいう「思想」とは 人の意識の活動で種々の観念が、ある一点において関係を持ち、その点において結合されたものである。この統合作用を「統覚作用」と呼んでいる。そしてこの統覚作用の言語的発表が「述格のあらわす陳述」だと説明される。山田のいう「陳述」の作用とは、人間の思想の統一作用であり、主位に立つ概念と賓位に立つ概念との異同を明らかにしてこれを適当に統合する作用だという。そしてこの統合作用を言語に表したものが用言であるとする。用言の本質は陳述にあるのである。用言の定義は「事物の説明をするのに用いる単語である」が、この説明をするということは、人間の思想の統一作用をあらわすことを主とし、それと同時に事物の属性観念をも表すことを含めるということである。そして、この用言の中で属性観念の考えられない純粋形式用言「あり」こそが、用言以外の属性を表す語(体言、副詞)に付いて陳述の作用のみをあらわし、述格を構成するという。山田は「あり」の本性的用法は「物の存在」を表すとしながらも、この陳述作用を表すcopulaとしての用法、すなわち人間思想の統覚作用をあらわすことを本義とするとしている。ここに「あり」という存在詞が、主位観念と賓位観念を統合する統覚作用の言語的表現―陳述を表すものとして、文の根底にあることが根拠づけられるのである。
しかし、山田が「あり」の用法のうち、「なり」(「である」)の用法を陳述の作用をあらわす根底的用法であるとしているのは、気に掛かるところである。和辻哲郎は『人間の学としての倫理学』のなかで、山田孝雄が「事物があるという意味の「あり」が本来の用法でありながら、統覚作用を現す「なり」(「である」)が根底的な用法と」していることを批判しながら、繋辞としての「である」の用法も「あり」の限定であり、統覚作用をあらわしているのではないことを主張する。和辻は次のようにいっている。
「陳述とは人間の存在の言い現しである。人間は何かについて陳述しつつおのれの存在を表現する。だから陳述は「あり」によって示されている。たとえば「Sがある」というのはSについて陳述しつつ人間がSを有つ(もつ)ことを言い現すのである。だから陳述においては、人間の存在はすでに先立って与えられている。陳述とはこの存在をのべひろげて言い現すことである。のべひろげるに当たってそれはさまざまの言葉に分けられ、そうしてその分けられた言葉が結合せられる。逆に言えば結合の前に分離があり、分離の前に陳述せられるべき存在がある。…」
西洋論理学においては、A is B.のように、存在動詞(be, sein)はまず、繋辞(copula)として語られる。すなわち、存在概念は「AはBである」という本質存在として語られている。しかし、もともと、<be>動詞の存在と繋辞の機能とは本質的なつながりはないのであって、「がある」を「である」に還元するのは、西洋論理学の前提にある特殊な存在了解に基づいているのである。和辻によれば、日本語において、「である」(本質存在)よりも、「がある」(現実存在)がより根底的であり、「である」はあくまで「がある」の限定である。そして、「がある」も「ある」の限定としてある。その限定をするのは、人間である。人間は事物の存在を限定することによって、人間存在そのものを顕示するのである。
「総じて「ものがある」のは人間が有つのであると言ってよいであろう。そうすれば「がある」が限定せられて「である」になるということは、人間がその有ち方を限定することにほかならない。庭には植木がある、美しい木である、と言う場合には、人間が庭の植木を有つ有ち方を美しいという語によって表されるような仕方に限定するのである。すなわちそれを愛玩し賞美するという仕方で有つのである。そうしてみると「がある」も「である」もともに人間の存在に属し、「である」はその存在の仕方の限定を表現したものであるということになる。ここにおいて「がある」と「である」とに分化する「ある」を人間存在の顕示として把捉する道が開けてくる。人間存在は実践的行為的連関であって、あらゆる意識あらゆる表現の地盤をなしている。実践的にすでに存する了解は言として自覚せられてくる。「あるということ」は実践的なる存在の了解の自覚である。従って「存在」
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