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发表要旨-山梨大学

サルトル物語理論における視点の問題(2) Les problèmes du point de vue dans la narratologie sartrienne 森 田 秀 二 Shuji MORITA 3.ドスパソスと世間の視点 『シチュアシオンI』で最も攻撃されたのがモーリヤックだとしたら、手放しに賛美されたのがドス?パソスである。ところが、どちらも視点がハイブリッド、つまり内部の視点と外部の視点が混淆しているとされる作品である。なぜ評価の違いが生じたのだろうか。ドス?パソスの『1919』でサルトルがもっとも評価するのが登場人物の一人ジョーが殺される極めて映画的な場面(例7)である。まずはこれから検討することにしよう。  ①でジョーは殺人者の姿を見るのだが、ときすでに遅し。②で殺されることになる。 例7 ① Joe se débarrassa de deux grenouillards et il gagnait la porte à reculons quand il vit dans la glace quun grand gaillard en blouse allait lui casser sur la tête une bouteille quil tenait à deux mains. Il essaya de se retourner, mais il nen eut pas le temps. ② La bouteille lui fracassa le crane et ce fut fini. ①ジョーは二人の下戸を片づけて、ドアの方に後ずさりしていた。そのとき、鏡の中に、大柄で屈強な作業服の男が目に入った。両手でもちあげたボトルをジョーの頭上に振り落とそうとしている。振り向こうとしたが、後の祭りだった。②ボトルはジョーの脳天を打ち砕き、それが最期だった。 このショットが描こうとしているのは、意識の死(無化)という本来表現不可能な出来事である。例7の引用に続けてサルトルは次のように説明を加えている。 “Dedans, avec lui, jusqu’au choc de la bouteille sur le crane. Aussit?t après, dehors, dans la mémoire collective, avec le choeur : “et ce fut fini”. Rien ne fait mieux sentir l’anéantissement.” 「びんが脳天にぶつかるまでは、私たちは彼とともに、内部にいる。その直後には、「そして、それが最後だった」という合唱とともに、外部に、集団的想い出のなかにいる。無への移行を感じさせる最上の方法である。」 まさに内部と外部の視点のハイブリッド性(視点の混淆)がそれを可能にしたというのである、例7の焦点化は次のように説明できるだろう。 ジョー(知覚主体)による作業服の男に対する[視覚的]焦点化(ocularisation interne) 超越的視点[語り手]によるジョーに対する[視覚的]焦点化(ocularisation zéro) 要するに、知覚主体であった登場人物がいつの間にか超越的視点の対象に引きずり落とされるという転換があり、その際にハイブリッドな視点が採られているのである。だが、これは、サルトルが「神の視点」として痛烈に批判したモーリヤックにおけるハイブリッド性とは似て非なるものである。この点については、すでにみたように「神の視点」とされるのはあくまでも対象人物の心理にまで分け入る認知主体であり、その意味では「視点」という表現がメタファーにすぎず、視覚情報が問題ではなかったことを思い出して頂きたい。さらに言えば、「神の視点」とはそもそも全知の視点ではなく、ある特定の心理学あるいは世間知(ドクサ)に依拠した分析にすぎない。それに対し、ドス?パソスのこの例では、外部の超越的視点が心理を分析する認知主体ではなく、単なる知覚主体(つまりカメラアイ)であり、そのハイブリッド性はサルトル詩学からみて何ら忌避すべきものではないのである。この超越的カメラアイの被写体をサルトルは「鏡の向こう側の男」(”homme de derrière la glace”)と名付ける。  ところで、サルトルは例7を『1919』のベストショットとして挙げているのだが、サルトルがドスパソス論でハイブリッドな視点として実際に分析するのは、「ニュース報道の文体」(”style de la déclaration à la presse” )、あるいは「コロス、世論の視点」(“le point de vue du choeur, de l’opi

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