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富士纺と文化遗产-小山町
富士紡績(株)小山工場
紡績/駿東郡小山町小山/第一・二工場
RC ・煉瓦・木・混構造平家建/大正 13 年(1924)/施工清水組
明治期における富国強兵の一端として、工業の隆盛が計られ、県内では富士川の水力を利用
して製紙業が起こされた。紡績では製紙業と同様に大きな動力を必要とするが、当時は水力を
利用した発電が主力であった。明治 22 年には東海道線が開通して小山駅が開設されていたと
はいえ、未だ寒村であった駿東郡六合村小山の地に、箱根 ・富士山系から湧き出る豊富な水を
利用した紡績工場の建設が計画されたのである。
明治 29 年(1896)3 月、新興工業であった紡績事業への進出を目指し、富士紡績㈱が設立され
た。
29 年 8 月から水路開削や道路敷設等の土木工事が始まり、続いて、工場および附属建物の建
設が開始された。設計および監督については、妻木頼黄が顧問として関わり、柱や梁書の用材
に当時としては珍しい米材が多用された。30 年 12 月 19 日に上棟式を挙行し、翌 31 年 6 月に
は第一工場(綿糸) ・第二工場(絹糸) の建築工事の全てが落成した。
明治 39 年には東京瓦斯紡績を合併して、社名を富士瓦斯紡績に変更した。創立 10 年を迎え
て工場門前の鮎沢川に新橋を架け替え、創業以来尽力のあった森村市左衛門の業績を言己念し
て「森村橋」と名付けたのも、この年であった。40 年には第三工場(綿紡績)、42 年には第四
工場(綿紡績) を完成し、その後大正年間に入っても小山第五工場(綿織布) を初め各地で工場の建
設や拡張を計り、さらには同業数社の合併を行うなど、国内における紡績業の代表として順調
に発展を遂げていった。
ところが大正 12 年(1923)に発生した関東大震災により、ここ小山工場は壊滅的な被害を蒙
ったのである。震災後直ちに復旧に取りかかり、小山工場では清水組の施工によって、翌大正
13 年には第一・第二・第五工場の完成を見ている。その後、第三・四工場も再建され、15 年
には震災前に匹敵する生産規模にまで復興された。
昭和 20 年(1945)、終戦間際の 7 月 30 日に小山工場は空襲を受け、第四工場は焼失、第一~
三工場も軽微ながら被害を蒙った。戦後復興に伴い 20 年 12 月には、社名から「瓦斯」の 2
字を除いて元の富士紡績㈱に戻し、現在に至っている。
小山工場の概要は、鮎沢川北側の一段高い菅沼の地に第一 ・二工場が建ち、それに付属して
診療所 ・森村橋 ・発電所(現東電菅沼発電所)等がある。他は、東方に約 1.5km 離れた小山駅(現
御殿場線駿河小山駅) のすく“北側に、第三~大工場及び事務所等が配されてる。
第一 ・二工場の建物は、広い面積を必要とする工場建築の通例に従い、鋸屋根を連続させた
形式を採っているが、関東大震災後の建築らし く、鉄筋コングリート造の柱や梁で架構され、
その間に煉瓦を 1.2 尺の厚さに積んで外壁を構成し、表面を白色に塗装している。内部は米松
の柱を立てて木造の小屋組を支え、床は転ばし根太に床板を張っている。柱と小屋材の接合部
には、鋳鉄製の金物が用いられており、大正期の施工技術の一端を窺い知ることができる。
また、敷地内には木造 2 階建の旧事務所等も残されているが、残念ながら第一 ・二工場の施
設は閉鎖されてしまい、数ある建築物も順次撤去される予定である。
なお、第三~大工場では、戦後大幅な改修が行われたり再建された建物が殆んどで、戦前の建
築形式を留める部分は少ない。
一方、工場北方藤曲の小高い丘の上には、豊門会館が位置している。(財)豊門会館は、富士
紡績の従業員並びに地域住民の教育・保健・慰安等の場を提供する目的から、大正 12 年 5 月
に設立申請を行い、翌年 8 月に登記された。その名称は、和田豊治社長の 「豊」と、富士紡の
三門と称せられた森村市左衛門 ・日比谷平左衛門・浜口吉右衛門の三翁の 「門」をとって名付
けられたものである。大正 13 年 3 月に死去した和田社長の遺志によって、東京向島にあった
同家の邸宅が遺族より寄贈された。
これを受けて、約 5,300 坪の庭園を築造して旧宅の移築を行い、14 年!2 月に豊門会館の施
設が完成している。建物は、和田社長の旧宅であったことから、和
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