- 1、原创力文档(book118)网站文档一经付费(服务费),不意味着购买了该文档的版权,仅供个人/单位学习、研究之用,不得用于商业用途,未经授权,严禁复制、发行、汇编、翻译或者网络传播等,侵权必究。。
- 2、本站所有内容均由合作方或网友上传,本站不对文档的完整性、权威性及其观点立场正确性做任何保证或承诺!文档内容仅供研究参考,付费前请自行鉴别。如您付费,意味着您自己接受本站规则且自行承担风险,本站不退款、不进行额外附加服务;查看《如何避免下载的几个坑》。如果您已付费下载过本站文档,您可以点击 这里二次下载。
- 3、如文档侵犯商业秘密、侵犯著作权、侵犯人身权等,请点击“版权申诉”(推荐),也可以打举报电话:400-050-0827(电话支持时间:9:00-18:30)。
- 4、该文档为VIP文档,如果想要下载,成为VIP会员后,下载免费。
- 5、成为VIP后,下载本文档将扣除1次下载权益。下载后,不支持退款、换文档。如有疑问请联系我们。
- 6、成为VIP后,您将拥有八大权益,权益包括:VIP文档下载权益、阅读免打扰、文档格式转换、高级专利检索、专属身份标志、高级客服、多端互通、版权登记。
- 7、VIP文档为合作方或网友上传,每下载1次, 网站将根据用户上传文档的质量评分、类型等,对文档贡献者给予高额补贴、流量扶持。如果你也想贡献VIP文档。上传文档
查看更多
第1話 焼け跡からの出発
白木屋前にて井深
1945年9月、東京での新会社創設のため、井深 大(いぶか まさる?当時37歳)は樋口 晃(ひぐち あきら)、太刀川正三郎(たちかわ しょうざぶろう)などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京した。 日本橋の白木屋の3階、電話交換台があった狭い部屋が新しい仕事場だ。焼け残ったとはいえ、建物の周りのコンクリートはヒビ割れ、窓ガラスさえない吹きさらしの粗末な一室である。それでも、だんだんと事務所らしい様相を呈してきた。 10月、井深たちは念願の「東京通信研究所」の看板を掲げた。 会社ができ、自分たちの持てる技術を世の中に役立てていきたいという目的はあったものの、正直言ってどの仕事から手を付けてよいか分からない。 最初の給料こそ井深が貯金をはたいて皆に渡したものの、会社を存続させるためには、何か仕事をしなくてはならない。それで思い付いたのが、ラジオの修理と改造である。研究所で短波放送の聴けるコンバーター(周波数変換器)を開発した。戦争で壊れたラジオ、敵の放送を聴くことができないようにと短波を切られたラジオが世間にはたくさんあった。これをスーパーやオールウエーブタイプのものに改良するのである。戦後の世界情況やニュースに飢えていた日本人にとって、ラジオの修理と簡単に取り付けられるコンバーターは喉から手が出るほど欲しい。そのため需要は結構あった。
失敗作第1号の電気炊飯器
また、こうした井深たちの仕事が朝日新聞のコラム青鉛筆で紹介されると、ますますお客が増えていった。しかも、これには余得があった。お互い気にかけながらも終戦のゴタゴタで消息の分からなくなっていた盛田昭夫(もりたあきお?当時24歳)から連絡があったのだ。戦時中、軍需監督官として井深と親交のあった盛田は終戦と共に愛知県知多郡小鈴谷にある実家に戻っていたが、ある日配られてきた『朝日新聞』に目を通しているうちに、井深の記事に気づき、すぐさま井深に手紙を出した。折り返し来た上京を促す井深の手紙を見るや、盛田は既に決まっていた東京工業大学の講師の件もあって、すぐに東京に出て、研究所に顔を出すようになった。これで、再び、井深と盛田の交際が始まった。 ラジオの修理の次に研究所で手がけたのは、電気炊飯器。 これは当時、軍需工場の閉鎖により一時的に電力が余っていたことと、日常生活に必要な商品を作りたいという井深の願望が一致したため考案されたのであったが、何分にも木のお櫃にアルミ電極を貼り合わせただけの粗末なもの。水加減や米の種類によって芯があったり、お粥のようになったりで、うまく炊けることのほうがまれというありさま。 これは井深たちにして初めての失敗作第1号となった記念すべき商品である。 むろんお金の取れる成功作もあった。真空管電圧計が官庁に納入されるようになったのである。こうして、1945年の暮れにはどうにか、井深たちの仕事も軌道に乗り始めていた。
\o このページの先頭へ
第2話 東京通信工業株式会社
1946年5月、左から盛田(当時常務26歳)と井深(当時専務39歳)
1946年5月7日の昼、総勢二十数名の小さな会社「東京通信工業」(現ソニーの前身、以下東通工)の設立式が始まった。社長には戦後すぐの内閣で文部大臣を務め、文化人でもあった井深の義父の前田多門(まえだ たもん)になってもらい、専務に井深、取締役に盛田が就いた。 ところで、井深は新会社を発足させるにあたり、設立の目的を明らかにした 設立趣意書を、自ら筆を執り、取締役の太刀川に預けていた。それを設立準備のゴタゴタにまぎれて、スッカリ忘れていた。後に、太刀川が井深に、「こんなことを書かれたんですよ」と見せたところ、「なかなか良いことを書いたんだなあ……」と自ら感心する始末。 しかし、設立式当日の井深の挨拶は、その設立趣意書に書いたことと寸分も違っていなかった。いわく、「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復興に役立てよう」 資本金は19万円。機械設備とてない。お金や機械はなくても、自分たちには頭脳と技術がある。これを使えば何でもできる。それには、人の真似や他社のやっていることに追従したのでは道は開けない。何とかして、人のやらないことをやろう。この時から、既に東京通信工業の進むべき道は決まっていたのだった。
設立趣意書
翌日から、全員が会社を盛り上げなければという気持ちで頑張った。その分、夜が遅くなる。あまり遅くまで仕事をしていると、白木屋の出口という出口にみな鍵をかけられてしまう。そこで仕方なく非常階段から
文档评论(0)