「精神の所有物」の継承～ナショナルトラストと環境思想.pdfVIP

1 （ 1） 「精神の所有物」の継承 ※～ナショナル?トラストと環境思想※ 大　　石　　和　　欣 ハワーズ?エンドからの出発 　イギリスの小説家Ｅ?Ｍ?フォースター（Forster）の作品『ハワーズ?エンド』（Howards End, 1910 年）には、いかにもイギリスらしい田園生活への憧憬が描かれている。舞台の中心と なっているロンドン郊外にある古い農家屋ハワーズ?エンドは、自然に囲まれたイングランドの 伝統的風景、建築物、精神文化を象徴したものである。バラバラになっていく 20 世紀初頭のイ ギリス社会において、それらが世代を超えて継承されることがありうるのだろうか。小説はそう 問いかける。 精神の所有物を遺贈するということなどいったい可能なのだろうか。魂に子孫などあるの だろうか。楡の木、ツタ、朝露のついたひと束の藁、こうしたものへの強い愛着を血の 通っていないところに移植することなどできるのだろうか？ 1 小説では、家の所有者であるウィルコックス夫人が亡くなり、紆余曲折を経て、家屋と土地は縁 も所 ゆ か り 縁もないドイツ人の血を引くマーガレット?シュレーゲルへと遺贈される。その後、マーガ レットの妹、そしてその子供へとイングランドの田園生活への愛着が継承されていく未来が暗示 されて小説は終わる。そこには断絶を包摂しながらも、イングランドの遺産が世代や階級、そし て人種までをも超えて保存されていく可能性がさりげなく示唆されている。 　文学研究者の間ではまったく無視されているが、実はこの問題意識は当時広まり始めたナショ ナル?トラスト（National Trust）運動と密接に連動している。小説中、主人公マーガレット? シュレーゲルが参加した討論会では、実際にナショナル?トラストが話題になる。割り当てられ た役柄に従って議論を展開する場面で、マーガレットは億万長者に「史跡あるいは自然景観地 の保存のための協会」、つまりナショナル?トラストへ遺産を寄付するように助言することにな る 2。1907 年に制定されたナショナル?トラスト法への言及である。寄贈?遺贈された資産を「譲 ※ 本論考は、2010 年 3 月 26 日に慶應義塾大学日吉キャンパスにおいて開催された日本イギリス哲学会シン ポジウム「イギリス環境倫理思想」での発表原稿を一部修正したものである。 1 E. M. Forster, Howards End, ed. David Lodge (Harmondsworth: Penguin, 2000), p.84. 2 Forster, Howards End, p.108. 2 名古屋大学文学部研究論集（哲学） （2） 渡不可能」なものとしてナショナル?トラストが永久保存する特権を認めた法律である。イング ランド特有の風景や史跡の保存、ナショナル?アイデンティティ再構築を主な責務として遂行し ていくナショナル?トラストが、帰農主義や社会保障といった当時の問題と一緒に、この小説に 顔を覗かせているのは実に興味深い。 　1895 年に設立されたナショナル?トラストは、イギリス近代の環境思想や道徳思想が醸成し た結晶の一つである。同時に、19 世紀末から 20 世紀前半にかけてのイギリス社会思想の指標と なる組織でもある。そこには一筋縄ではいかない複数のイデオロギーが錯綜している。それらを 時代背景に留意しながら、社会思想史の側から解きほぐしてみたいというのが本論の眼目であ る。歴史的文脈の中で組成された団体を思想媒体として捉えることには無理があるし、ナショナ ル?トラストが「イングリッシュなもの」への庶民の愛着を体現した組織であると断定してしま うと、「環境思想」といった高邁なものをそこに見出すことはできなくなってしまう。だが、環 境に対する庶民の日常的感性がナショナル?トラストの推進力となったとすれば、それをポピュ ラー?カルチャーになぞらえたポピュラー?フィロソフィー（popular philosophy）として定義 し、そのナイーヴさに秘められた思想の様態とそれを醸成した歴史的?思想的状況を検証してお く必要はあろう。 　その成り立ちからしてナショナル?トラストは異種イデオロギーの複合体である。湖水地方の 自然環境保全運動を牽引していたハードウィック?ローンズリー（Hardwicke Rawnsley）に、 ロンドンにおける貧困者たちの住環境改善を推進していたオクタヴィア?ヒル（Octavia Hill）、 そして 1867 年より共有地保存協会（Commons Preservation Society、1865 年設立）に弁護士と して関与していたロバート?ハンター（Robert Hunte