体育哲学における人間形成概念の（不）可能性と展望.pdfVIP

日本体育学会シンポジウム発表原稿（弘前大学、2006 年 8 月 18 日） 体育哲学における人間形成概念の（不）可能性と展望 樋口聡（広島大学） １．体育哲学というテリトリー 体育学において半ば常識的に使用されている基本概念の一つとして「人間形成」を取り 上げ、それについての批判的検討を試みることが、本シンポジウムの趣旨であると理解す ることができる。その場合の「体育学において」という限定は、現行の教育制度における 「体育」という教育の具体的現実を前提にしたものである。小学校から大学に至るまで、 若干の名称の違いはあっても、「体育」という教育が存在しており、それを研究する学問と して「体育学」があり、その体育学の一分野として「体育哲学」があるという事実の中に、 われわれはいる。そして、その体育哲学が、体育学における基本概念の検討として、人間 形成概念を取り上げる。これは、考えてみれば、当たり前のことではない。というのは、 例えば、「音楽教育による人間形成」とか「美術教育による人間形成」といったことが語ら れるとしても、そこに「音楽教育哲学」や「美術教育哲学」による人間形成概念の自己反 省などが、組織的になされるわけではないからである。 教育哲学とは別に、体育哲学というテリトリーがある。それには、こうして全国学会組 織も整っており、今日まで研究活動が積み重ねられている。私の知る限り、現在の学校の 教科の中で、「哲学」と直接に結び付いた学問が展開している教科は、体育だけである。そ れはなぜか。興味深い学問論の展開の可能性がうかがえるが、それはまた別の課題である。 一つだけ指摘しておくべきは、体育哲学は、「スポーツ哲学」と密接に絡んで存在している ということである。体育に対するスポーツ哲学は、音楽教育や美術教育に対する芸術哲学 と同じ位置にあるもので、スポーツ哲学の国際学会もすでに存在しており、一定の社会的 認知が得られているものである。体育哲学は、スポーツ哲学と絡みながら、また時にはそ れと暗黙のうちにすりかえられながら、そのテリトリーを維持してきている。もし、体育 哲学がその問題を体育という「教育」に厳格に限定するとすれば、それは限りなく教育哲 学に接近することになるだろう。というのは、体育哲学は、体育という教育の哲学、すな わち体育の「教育哲学」であるはずだからである。これまで、事態はそのようにはなって おらず、体育哲学というテリトリーと教育哲学というテリトリーが、それぞれの研究者に よって区分され保たれているのは、学会という制度の問題にすぎない。本日の私の発表で は、人間形成論といった問題はそうしたテリトリーを超えていることを、示すことになる 1 だろう。 ２．体育哲学における人間形成概念の不可能性 この節の表題は、体育哲学が、体育ならびに体育学の基礎付けのために、体育の理念と して体育学独自の ．．．．．． 「人間形成」を設定することが、積極的な意味を持たないことを意味し ている。それは、体育という教育が、いわゆる「人間形成」と無関係だということを意味 するのではない。むしろ、「体育は人間形成そのものだ」などと言うことさえ、可能である。 問題なのは、「体育という教育」と「人間形成という理念」を結び付けて論じる、論じ方で ある。 この問題については、すでに先行研究があり、久保正秋氏の論考を引き合いに出すこと ができるだろう。久保は、「「体育における人間形成」論の批判的検討」という一連の論考 1において、「体育は人間形成である」という主張の危険性を指摘している。久保の批判的 検討によって示された論点を、３つ挙げてみよう。 一つ目は、観念的?抽象的な「目的」と、具体的な「目標」の混同である。久保は、佐 藤臣彦氏の「目的と目標の現象論」を参照して、観念的?抽象的レベルの「目的」として の「人間形成」と、体育実践における具体的レベルでの「目標」との混同が、これまでの 体育における人間形成論には見られると言う。ここで私が強調したいのは、「人間形成」と いったことがらは、観念的?抽象的レベルの理念 ．． であるということである。それが或る種 の教育 ．． 理念 ．． であるとすれば、それは体育だけに見出されるものではないはずである。例え ば、『美術教育と人間形成』という本があり、人間形成としての美術教育の理念が示されて おり、次のように述べられている。 美術教育は画家や彫刻家のように、美術のプロ（専門家）の養成を目的とするのではない。 また単なる造形感覚の陶冶、情緒の安定をめざすだけに終わるもの