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理性の公的な利用と私的な利用-カントの公共哲学

国際協力専門員便り 第 287 号(2009 年 5 月) 理性の公的な利用と私的な利用-カントの公共哲学 鶏ノート(その17) 国際協力専門員 吉田 充夫 カントにおける「公的」と「私的」 イマヌエル?カント(1724-1804;写真は /academics/philosophy/kant2.html より引 用)は「啓蒙とは何か」(Was ist Aufkl?rung?)と題する小論文の中で、「啓蒙」を次のように 定義している1。 「それは人間が、みずから招いた未成年の状態か ら抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示 を仰がなければ自分の理性を使うことができないと いうことである。人間が未成年の状態にあるのは、 理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、 自分の理性を使う勇気も持てないからなのだ。だか ら、人間はみずからの責任において、未成年の状態 にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語 とでもいうものがあるとすれば、それは「知る サ ベ 勇気 ー レ を ア もて ウ デ 」だ。すなわち「自分自身の理性を使う勇気を もて」ということだ。」(カント「永遠平和のために? 啓蒙とは何か」光文社古典新訳文庫刊?中山元氏に よる新訳) ここでいう「啓蒙」という日本語の訳語、つまり「無知蒙昧な人を教え導くこと」という意 味の語、とは異なり、Aufkl?rung とは自らの理性の力によって精神が成熟することをいう。 啓蒙を実現するために、知る勇気を持て、自分自身の理性を使う勇気を持て、というカント の呼びかけは、一見、個人の私的なレベルの営為のみを指すように読める。では、ひとりひと りではなく、これが広く社会全体として達成されるためには、すなわち、公衆が「啓蒙」され るにはどうしたらよいのか。 「個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能 なのである。そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜けだすのは、ほとんど避け られないことなのである。というのも、公衆のうちにはつねに自分で考えることをする人が、わ ずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである。このよう 1 鶏ノート(その2)「カントの Aufkl?rung(「啓蒙」)に読む Capacity Development の内発性」参照。 鶏ノート 国際協力専門員便り 第 287 号(2009 年 5 月) な人々は、みずからの力で未成年状態の<くびき>を投げ捨てて、だれにでもみずから考えると いう使命と固有の価値があるという信念を広めていき、理性をもってこの信念に敬意をはらう精 神を周囲に広めていくのだ。」「公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自 由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さ えあればよいのだ。」(前掲書) 個人の力では理性を使って自分自身の精神の成熟をはかることは簡単なことではない。しか し、公衆が自らを啓蒙するのは実は可能なことなのだ、そのカギは自由だ、とカントは言う。 そして、ここでカントは、「理性の公的な利用と私的な利用」というカントの公共性論の出発点 ともいうべき区別を提示する。 「啓蒙を妨げているのは、どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば、啓蒙を妨げること なく、むしろ促進できるのだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用はつねに自由で なければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。これにたいし て理性の私的な利用は極めて厳しく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げら れるわけではない。」(前掲書) では、「理性の公的な利用」とはどのようなものだろうか。それはある人が学者(知識人ある いは専門家と言い換えても良いだろう)として、すべての公衆の前で、みずからの理性を行使 することである。そして「理性の私的な利用」とは、ある人が市民としての地位または特定の 組織や機関の官職についている者として、理性を行使することだという。 「公的な利害にかかわる多くの業務では、公務員が ひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。 それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共 の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的 の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。 この場合にはもちろん議論することは許

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