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所有と労働の循環817-econ.kyoto
所有と労働の循環から見る株式会社の通過点論 八木ゼミ M2 中 野 嘉 彦
はじめに
本稿はマルクスが株式会社を未来社会への通過点とした論点を、前回の個体的所有の再建との絡みの視点での検証に引き続いて、物象化視点、現象形態と本質の視点からみる、所有と労働の循環から株式会社の通過点論を検証することにある。
Ⅰ、問題の提起
唐突であるが先ず、ウィークフィールズ氏の「近代的植民地 」に案内したい。彼は植民地を開墾するために貨幣、生活手段、機械その他の生産手段を植民地に持ち込んだのであるが、そこで発見したのは自由意志で販売することを余儀なくされている、賃労働者がいなければ、資本家たりえないことであった。「資本は一物象でなく、物象によって媒介された人格と人格との一社会的関係であることを彼は発見したのである。」 資本論Ⅰ-25
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人は、資本、または資本が循環の過程で担う貨幣や生産手段そのものが、利潤を生み出すかの「取り違え」をする。資本そのものでは利潤を生むことができず、そこに労働力を売る労働者がいて、結合しなければ資本は循環としての運動が出来ないことを、ウィークフィールズ氏が教えてくれたのである。このように、あるものの関係ではじめて属性が発揮されるのにそれ自身が属性をそなえていると「取り違える」ことをマルクスは物象化Versachlichungと呼んだ。前節の 抽象的人間労働が対象化された労働生産物が、商品形態をとると何故「謎的性格」が生まれるのかに、はじまって貨幣、資本ときて利子生み資本、株式会社。物神性として語られる、この「取り違え物語」としての資本論の著者マルクスは、株式会社が最高で又最後の役どころと考えていたのである。「この止揚の行き着く究極の形態--だがそれは同時に資本に適応したそれの形態での資本の終局的措定である--はすなわち株式資本である。」 0 。マルクスの著述プランによると株式会社を最終章にもってきて株式会社を、「株式会社(最も完成した形態--共産主義に一転する--同時にそれのあらゆる矛盾をともなっているところの)」 1 とし、最後の役どころに据えた意図がなにであったか、何故最後なのかを、この物象化の視点から、所有と機能(=労働)の物象化を、「通過点論」と絡めてこの稿で明らかにしたいのである。
Ⅱ、物象化視点でみる「所有と機能(=労働)」の分離
利潤の確保を求めて運動する資本の必然的な帰結は、一つは「流通時間なき流通」であり、これを信用に求め、他方は競争を機械導入など、固定資本の拡大に求める。この結果当然のこととして「資本の量的制限」を擬制資本、株式資本に求める。
マルクスは株式会社の形成で「所有と機能が分離する」ことが必然的に起こると述べる。所有と機能は、所有と労働の分離の延長線上に起こることであり、この所有と労働(=機能)の分離とを物象化視点からみてみる。
所有とは、前節から述べているように、人間が主体的に 類的に自然に働きかけることによってその成果である労働生産物の社会的承認を得る事である。所有は労働することで得られ、労働は、所有において 類的存在 を確証し、所有そのものは、支配し他を排除する物理的意味あいと同時に、所有を関係行為として、制御能視点、生産関係の視点両面でみるべきことを前回述べた。
所有は本来労働との同一性において把握されるべきものである。ところが資本制社会では、生産手段を資本家が私的に所有することによって、所有と労働とが、「分離」してしまう。更に株式会社ではこの「分離」を再び同一性に「再転化」するのである。株式会社が未来社会への必然的な「通過点」としたマルクスの意義がここにあることを。以下、所有と労働とは同一性 2 と分離としての、弁証法的循環を繰り返すことで論証したい。
小経営と言われた資本制以前は、労働者が生産手段を私的に所有し、生産行為をおこない自由に自己の労働を制御し、労働生産物を所有し自由に処分していた。労働者と生産手段とは結合されているものの生産性が低く、資本制的生産方式によって破壊され否定される運命にあった。しかし労働と所有とは同一性を保っていたと言えた。
資本制社会にあっては生産手段は私的に資本家が所有し、労働力を売る以外に道のない労働者は土地など生産手段から引離され、労働と所有の同一性は解体され、労働は「所有を否定されたものの労働」 3 (要綱S373 であり「疎外された労働」として 類的存在 を確証できず、したがって労働は自己にとって無縁でその成果は、生産手段の所有者たる資本家の私的な所有として社会承認される。ところが今度は、資本そのものの運動として、生産手段を所有する資本家が、労働者と生産手段を結合させ、労働を個別性としてではなく社会化
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