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08 携帯上司 小田嶋　隆 最近、携帯電話を持ち歩いている人間をよく見かける。つい先日も、山手線の座席で、無駄話(違うってば、そういうつもりじゃなかったんだよ。うん。うん。だからさあ、先から言ってるだろ……)をしている男を目撃した。確かに、電話が携帯できた便利ではあるだろう。電車の中にいる時や信号待ちの間に電話ができたら、時間をより有効に使えるだろうし、女のコに自分のプライベートナンバーをそっと教えるのは、心楽しいことであるかもしれない。 が、これは、単に「便利だから」だとか「カッコいいじゃん」ということで簡単に片付けてよい問題ではない。少なくとも私は、電車の中や路上で携帯電話による通話をしている人間を見ると嫌な気持ちになる。 電話は、元来、プライベートなものだ。というよりも、われわれのようなっしい土地に群れ集まって暮らしている人間たちにとっては、プライバシーと呼べるようなものは、せいぜいが寝室と便所と電話の周りの少しばかりの空間の中にしか存在していないのだ。 だから、我々は、「他人の電話に聞き耳を立ててはならない」という暗黙の了解事項を、必死になって守っている。ベッドサイドにおいている電話であれ、オフィスの机の上の電話であれ、我々は、誰かが電話に向かって話しているときには、その人間のことをなるべく無視しようと努めるのだ。 たとえば、妹が階段の下にある電話で長電話をしているとき、私はなるべく階段に近付かないようにする。どうしても階段を通らなければならなくなったら、「もうすぐそっちを通るぞ」という感じの足音を立てながら、駆け抜けるようにして階段を降り切る。 もちろん、私とて、妹がどんな男とどんな話しをしているのかについて、興味がないわけではない。が、私は、市民社会に生きる人間として、その興味を殺す。 「ここでみきなんかをしたら、俺は最低のクズ野郎になってしまう。 と、そう思って、私は、一目散に階段を駆け下りてトイレに駆け込むのだ。 ともかく、そうやって、我々は、「電話のプライバシーを守るべく、日夜努力している。だからこそ、我々は、面と向かってはとてもいえない恥ずかしいセリフを、受話器に向かってならば、なんとか吐くことができるのであり、そうであるからこそ、恋は生まれ、人々は生きているのである。 ところが、携帯電話は、その我々の電話プライバシー死守の努力を、いともあっさりみ、のままで入り込んでくる。そして、その携帯電話の持ち主は、臆面もなくプライベート通話を始め、周囲の人たちのパブリックなモラリティーに泥を塗るのである。 市民社会の公共意識は、場違いなプライバシーに出くわすと、アレルギー反応を起こす。このことをぜひ銘記しておいてほしい。 たとえば、一時期、新聞の投書欄に、「電車の中でヘッドフォンステレオを聞いている若者がいるが、うるさくてかなわない」という趣旨の投書が大量に寄せられて話題になったことがあるが、投書したおっさんたちは、実は、ヘッドフォンから漏れ出る音楽の大きさに腹を立てていたのではない(だって電車の音のほうがよっぽど大きいんだから)。 私の考えによれば、あのおっさんたちは、公共の場にプライベートな空間(リスニングルーム)を持ち込んでしている若者の無神経に参ったのであり、また、満員電車の中で楽し気に音楽に身を任せているヤングさんたちに嫉妬を覚えたのである。 「おい、そこの若いの。みんなこうして通勤地獄の狭い車内で苦しんでるんだ。お前だけ音楽聴いてノリノリってのは、ルール違反だとは思わんのか。) まことに、公共心ほどなものはない。そして、恐るべきことに、携帯電話は、リスニングルームどころか、寝室めいたものを車内に持ち込む。ヘッドフォンステレオが車内に持ち込むプライバシーは、せいぜい孤独な自足に過ぎないが、携帯電話が持ち込んでいるのは「コミュニケーション」だ。そして、プライベートなコミュニケーションは、他人の目から見れば、どうしたって不潔に見えるものなのだ。であるからして、電車の中でキスをする男女が周囲一〇メートルの空気を無条件に不潔にしてしまうのと同様に、電車の中で電話をする男もやはり、なにがしかのコミュニケーションの不潔を撒き散らさずにはおかないのである。 さてしかし、携帯電話にはプライベート以外の用途もある。ビジネスだ。 では、ビジネスの用途に供される携帯電話は、これは、プライベートな携帯電話の場合と違って、もっと公明正大で、便利で素敵でカッコ良くて、要するに良いものだろうか。 ううむ。 少なくても、便利ではある。 しかし、便利であればそれでよいというものではない。肝要なのは「誰にとって便利であるのか」ということだ。 考えてみよう。