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西田幾多郎と近代日本の哲学─「東洋哲学」とは何か─
70??共生の哲学に向けて─イランにおける多文化共生研究集会?現地調査─
?「東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くといったようなものがひそんでいるのでは
なかろうか。我々の心はかくのごときものを求めてやまない」。(『働くものから見るものへ』序文)
序 西田幾多郎の「東洋哲学」
?西田幾多郎は、日本で最初の「哲学者」と言われる。彼の独自性、そして歴史的意義は、「日本」の「哲学」を
初めて作ったことにあるが、それは、日本が明治期を迎えて近代化するにあたって、西洋近代の論理を、いかにし
て日本の伝統を保持しつつ受け入れ、それに統合するか、という時代の要請に対応するものであった。言わば、矛
盾したものを? 一方を他方に還元することなく結びつけること、しかもそれを哲学者として、論理の上で行うこと
が問題なのである。その問いに対する西田の答えを予め言っておくと、「<東洋>(日本はその一つの現れである)
が<自己否定>して<西洋>を<包む>」というものである。
?こうして、西田の哲学は、古代から現代にまで到る西洋哲学の歴史を、それより深く、広やかな「東洋」の論理
によって「包む」ものである。それは、「西洋哲学」と「東洋哲学」を二つの矛盾した原理として対立させ、後者
から前者を批判するものではなく、西洋哲学の論理の中に入って、それを内側から、言わば(ハイデガー的意味で)「解
体」する、というよりもむしろ(デリダの意味で)「脱構築する」⑴ものである。それは具体的作業としては、古
代から現代に到る主要な哲学者(本論ではアリストテレス、フィヒテ、ベルクソンを扱う)と対決することにおい
て、それらの論理の前提となっていながらそれらの論理そのものの本質的な限界によって隠蔽されている実在の体
験へと遡り、そこからこれらの哲学を乗り越え、位置づけてゆくことである。これが「包む」と言われていること
である。ここで重要なことは、この「包む」ことが、単なる方法的なものではなく、「実在そのもの」の動きだと
いうことである。西田の哲学は認識論ではなく、認識論をも「包む」実在の形而上学である。
?これは、ここで用いられている「東洋」「西洋」という概念が、地理的?歴史的(経験的)なものではないこと
を意味している。西田の文脈で言うなら、「西洋」とは、西洋哲学の根底にある(と西田が考える)「対象化?表象
論理」のことであり、「東洋」とは、あらゆる対象化?表象の根底で、それを包んで働く「実在の論理」を指す(そ
の内実は以下で詳しく述べる)。これに対して、近代日本の哲学の歴史において、「東洋」と「西洋」はほとんど常
に地理的?歴史的意味に取られ、それゆえに不毛な論争を繰り返してきた。少なくとも西洋哲学研究においては、「東
洋」もしくは「日本」は近代に対する反動的なものとして、否定的な意味で使われてきた(「日本回帰」、「東洋回帰」
といった表現は、ほとんど倫理的な糾弾として使われる)。これに応じて、西田の読解においても、それを「日本思想」、
「東洋思想」として見るものと、あくまでも「西洋哲学」の枠の中で解釈するものの、相反する二つの方向がある。
しかし、この対立も、「東洋」概念をもっぱら地理的?歴史的に理解することから生じるものであって、「西洋」「東洋」
という二つの文化制度に分かれる以前の唯一の実在から思惟する西田自身に本来このような区別?対立はないはず
である。にもかかわらず、西田自身が「西洋」「東洋」の、論理的?哲学的意味と地理的?歴史的意味をしばしば
西田幾多郎と近代日本の哲学
─「東洋哲学」とは何か─
永井 晋
共生の哲学に向けて─イランにおける多文化共生研究集会?現地調査─
国際哲学研究 3号?2014??71
混同しており、そこに西田哲学に対する戦後の激しい批判が起因している⑵。しかし哲学においては本来「東洋」、「西
洋」は、経験の二つの次元(実在と表象、深層と表層)を表すカテゴリーとして理解すべきものである。この点で
? 西田の「東洋哲学」は、現代日本を代表するもう一人の哲学者、井筒俊彦の「東洋哲学」、「精神的東洋」の構想
に極めて近いと言える。西田と井筒の関係には、本論の最後に改めて触れる。
1 .「直観」と「純粋経験」:ベルクソンとの対決
?西田は彼の最初の著書『善の研究』において、その冒頭から、彼の全哲学の出発点となり、それを貫く「純粋経
験」をいかなる条件もなしに端的に提示する。それは、形而上学としての西田哲学の唯一の主題である「一なる実
在そのもの」の直接の、内部からの経験である。それは次のように記述される。
「純粋経験が唯一の実在である」⑶。
「色を見、音を聞く<刹那>(…)<未だ>主もなく客もない」⑷。
?一見、神秘主義的体
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