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科学宗教哲学

1997 年度日本哲学会講演(原題「田辺元の科学哲学と宗教哲学」) 1 科学?宗教?哲学 西田と田辺の思索を手引きとして 田中 裕 一 懴悔道以後の田辺元の『科学哲学』の独自性 『懴悔道としての哲学』(1)以後に書かれた、晩年の田辺元の科学哲学上の論文は、前期な らびに中期の著作と一面において連続性を有するとともに、他面においては、全く新しい特 徴づけを必要とする不連続性をもっている。まず『科学哲学』という言葉の定義が本質的に 変化したのである。 すなわち晩年の田辺が『科学哲学』という語で言おうとした事柄は、 伝統的な形而上学や宗教哲学との関係において、実用主義や論理実証主義の流れを汲む現 在の欧米で使われている標準的な意味を基準にしたのでは全く理解できないものであるこ とに注意しなければならない。 例えばウィーン学派が『科学哲学(scientific philosophy)』で意味したものは、神学や形 而上学の残滓をすべて清算して、哲学を実証的な諸科学の認識論ないし論理学となすとこ ろにあった。(2)カントの認識批判を言語批判として継承した彼らにとって、形而上学や神 学はいかなる認識的な意味をも否定されるべきものであった。『科学哲学』という用語には、 伝統的な哲学の解体、哲学が個別的な科学に解消されることに、歴史の進歩をみる実証主義 者の見地が反映されていた。 従って、この意味での『科学哲学』は、宗教哲学や形而上学 に根本的な関心をもつ哲学者にとっては、哲学をあたかも『科学の侍女』として扱うごとき 態度を含意する点において、伝統的な哲学的知の終焉を告知する厭わしい用語であった。こ れに対して、カント哲学の批判精神を受け継ぎつつも、それを『絶対批判』の弁証法という 独自の仕方で展開した田辺元が『科学哲学』という用語を使うとき、それは科学の探求の現 場で科学者の遭遇せざるを得ない逆説ないし二律背反という限界状況を徹底的に考察する ことを意味しており、彼はその考察を宗教哲学の根本問題へと媒介することを自分の課題 と考えていたのである。 『科学と哲学と宗教』という晩年に書いた論文で田辺は『科学は科学哲学にまで自覺を徹 底するとき、必然宗教に通ぜざるを得ない』と書き、次のようにその理由を述べている。 (TW12:134)(3) 本来、科学と宗教とが矛盾するといふことは、両者がそれぞれ境界を侵すいはゆる越境 行為を自由意志によりて敢えてするためにのみ起こるものであるとは限らぬ。若しそ うであったならば、また自由意志により各々が自制することによって、両者の闘争は中 止せられるはずである。しかるに批判が結論として到達したところの理性の二律背反 なるものは、實はいかにするも分析論理の立場において分別し自由意志的に制限する ことにより解消することのできる矛盾ではないことを示す。それは定立と反定立とが、 それぞれ相当の理由をもって主張せらるる不可避の対立であって、それに陥ることは 1997 年度日本哲学会講演(原題「田辺元の科学哲学と宗教哲学」) 2 無制約的認識を意圖する理性の免るべからざる運命なのである。理性はこの運命を謙 虚に肯定し、一度自己を矛盾の底に壊滅せしめることにより、その死から復活せしめら れる挫折即突破の道を行的に信証するより外にゆく道はない。かくして、科学そのもの のなかに、認識の徹底的自覚を求める哲学の要求が含蓄せられ、これがその限界状況に おいて、不可避に発現せられることにより、おのづから宗教の立場に通ずることをあら はならしめる。??? このような田辺の独自な科学哲学理解は、数理哲学や理論物理学の探求の現場で登場す る逆説を実在への通路とする考え方を前提している。彼は、自分の科学哲学をしばしば『科 学の公案を解くこと』と表現していた。田辺の宗教哲学が彼の科学哲学における公案修行と 不即不離の関係にあることは、基督教信仰をもつ科学者が、自然という書物の中に創造主の 言葉を読み取り、存在の比論によって啓示の理解への準備としたことになぞらえることが できる。臨済禅の室内で師家の提唱を聞き宗教的なパラドックスと悪戦苦闘した経験こそ なくとも、田辺の科学哲学における著作こそ、万人に開かれた書物にほかならぬ自然におい て現成する逆説的真理の促しによる辧道話として、類比的な意味で彼の公案修行の足跡で あったということもできよう。 さらに注目すべきことは、『懴悔道としての哲学』という著作自体が、日本の敗戦という 歴史的事実を、田辺が『公案』として受けとめることによって生まれたということである。 この文脈では、『公案』という語は倫理的社会的実践において我々の遭遇する二律背反を指 すものであり

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