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- 2017-07-29 发布于江苏
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明珠在掌-yakushin
明珠在掌
明珠掌に在り
幸せは我が内にある 松原康道先生の言葉
すべてのものには、そのものたらしめる根源的な機能があります。
一枚のちり紙も例外ではなく、ものを拭くという機能を備えていま
す。携帯電話がいくら便利でも、ものを拭く機能はありません。す
べてのものにはそれぞれ固有の機能があり、この機能を象徴的に明
珠、仏性などといいます。「明珠在掌 (明珠掌{たなごころ}に在
り)という禅語は、その大切な象徴が手のひら、至近の距離の中に
あることを説いています。弘法大師空海は「般若心経秘鍵」の冒頭
で次のように記しています。「それ仏法遥かにあらず。心中にして
即ち近し、真如外(ほか)にあらず。身を捨てて何かに求めん」真
理は自分の外にあるものではない。自分の一番身近なところ、内に
あるものであり、それを外に求める必要はない。ところが、近くに
あるためかえって人は迷います。私など、メガネをかけていること
を忘れて、「メガネがない」と探し回る愚行を演じたことがありま
す。「青い鳥」という童話をご存じで しょう。幸せの青い鳥を求め
て旅に出たチルチルとミチルが、旅の末に幸せは身近なところにあ
ることに気づく物語です。一休禅師の狂歌も同じことを説いていま
す。「極楽は西方(さいほう)のみかは東にも北道(来た路)さが
せ南(皆身)にあり」浄土宗では西方浄土というが極楽は西のほう
にだけあるものではなく、東にもあるし、北にも南にもどこにでも
ある。北道を「来た路」と掛け、自分がこれまで歩んできた路を振
り返ればこれから行き着く先ははっきりしてくること。また南を 「皆
身」に掛け、極楽はつまるところここにもある、各々の心の内にあ
ることを説いています。道元禅師も次のように詠んでいます。「極
楽は眉毛の上のつるしものあまり近さに見つけざりけり」
「尽日春を尋ねて西また東・茫鞋(ぼうあい)あまねし朧頭(ろう
とう)の雲帰り来って梅花をねんずれば、春は枝頭にあって既に十
分」
春が来たと聞き、その兆しを求めて草履が擦り切れるまで探し回っ
たけれども、どこにも見当たらない。疲れ切って家に帰って来ると、
庭の梅の木が花を咲かせてよい香りが しており、春はこんなにも身
近なところにあったことに気がついた。幸福を求めて遠くまで出か
けていくことの愚かさを、優美な詩歌のなかで象徴的に詠んでいま
す。私たちは、肝心の「いま、ここ」を捨て、どこかよそに幸せを
求めて行きがちですが、それは決して幸福を得る道ではないのです。
心を耕し、柔らかくする
釈尊がある農村で説法をしていました。そこは仏教に敵対意識を持
つバラモン教の盛んな村で、一人の農民が釈尊を冷やかして言いま
した。「ご出家よ、布教も結構だけれども、いまこの農村は、ご覧
の通り猫の手も借りたいほどの農繁期だ。そんな説法などやめて、
田んぼを耕してくれたほうが皆助かるんだ」
釈尊は答えて言いました。 「私も、耕しています。あなた方の心を、
私も耕しているのです。」怪訝な顔をする農民に農民は続けました。
「農士を放っておくと荒れ地になる。雑草もそのままにしておけば
害を為しますが、抜いて土に埋めておけば立派な肥料になります。
同じように、私たちも心を野放しにしておくと人間を駄目にしてし
まいますが、煩悩をよく耕して心に漬け込んでいくと、悟りの肥や
しになるのです。」悩みや苦しみもよく耕せば、それが幸福のもと
になります。例えば、病気で苦しんでいる時にはこんな不幸はない
と考えがちですが、あえて同じ病気に苦しむ患者さんを見舞って、
治療の経緯を語るなら、相手の方から喜ばれ病気になったおかげで
自分自身も健康な時には味わえなかった喜を得られるでしょう。こ
れはあらゆる逆境にも当てはまります。その人の心一つでこの不況
の中にも幸福を見出すことはできるものです。幸福とは、他から与
えられるものではなく、自ら発見してつかみ取っていくものです与
えられるのを待っているのではなく、マイナスの中にプラスを、発
見し耕していくところに人生の生きがいはあります。両手の掌に鋤
や鍬を持って一生懸命に耕していくこ とによって、掌の中に明珠が
つくられていくのです。幸福は足元にあり。このことを忘れず、日々
の生活の中から幸福を見出し、豊かな人生を築いていきたいもので
す。 極楽は
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