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明治时代—3
第二章 明治時代(下) 目次 一、近代国家の形成 二、中国?朝鮮に対する侵略と日露戦争 三、近代文化の発達 一、近代国家の形成 1. 条約改正 植民地化されずに自力で近代化への改革をなした日本は、半世紀を経て、不正条約の改正を達成した。条約改正とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。1894年には英国と条約改正を成し遂げ、これを皮切りに江戸時代末期以来の不平等条約の解消を進めた。これを完全に達成したのは韓国併合以降である。 岩倉使節団を派遣(1871 ):最初の訪問地アメリカで、 条約改正交渉失敗。 外相寺島宗則(てらじまむねのり)による交渉(1876?1878): 税権の回復にアメリカは賛成するが、英独が反対し頓挫。 外相井上馨による交渉(1882?1888 ):鹿鳴館の建設に よる欧化政策、裁判所に外国人判事を採用など、国粋主 義者の反発、ノルマントン号事件①に対する不首尾もあ り、井上辞任。 外相大隈重信による交渉(1888?1889 ):大審院にのみ 外国人判事を採用することがロンドンタイムズ紙にリー ク(秘密を漏らす)される。玄洋社(頭山満<とうやまみつる>を中心 とする右翼団体)の来島恒喜(くるしまつねき)のテロに遭遇し、 辞任。 外相青木周蔵(あおきしゅうぞう)による交渉(1889?1891 ): 法権回復にイギリスは賛成したが、大津事件②で頓挫。 日英通商航海条約(1894):外相陸奥宗光(むつむねみつ) イギリスに治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせる。 日米通商航海条約(1911):外相小村寿太郎(こむらじゅた ろう)、アメリカに日本の関税自主権を認めさせる。 注釈: ① ノルマントン号事件 1886年10月24日、ノルマントン号事件が起きた。紀州沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が沈没したが、船にはイギリス人、ドイツ人、中国人、インド人、日本人らが乗船していたが、事故の際、船員であったイギリス人、ドイツ人ら白人はほぼ全員が生存した一方で、乗客であった日本人は25名全員が死亡した(インド人の乗組員も全員死亡)。さらに、助かった船員らは救命ボートで避難していたため、船長が適切な避難誘導をせずに、乗客である日本人を取り残したのではないかとの疑念から当時の世論が沸騰した。これは当時の欧米(白人社会)に広まっていた人種差別の考えがあったと思われる。 事件に関して当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあった。そしてこの領事の裁判の結果、船長は無罪となり、日本国民の怒りが爆発した。 ② 大津事件(おおつじけん)は、1891年5月11日に 日本を訪問中のロシア帝国の皇太子?ニコライ (後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあた っていた巡査?津田三蔵(つださんぞう)に突然斬りか かられ負傷した、暗殺未遂事件である。行政の干 渉から司法の独立を確立し、三権分立の意識を広 めた近代史上重要な事件。 2.明治初期の対外政策 明治初期は、日本は欧米諸国に対してまだ微力だったため、妥協することにし、欧米列強の圧迫による損失は、朝鮮や中国に対する侵略により取り戻すという国策を打ち出した。 1873年、朝鮮との国交樹立を拒否したため、征韓論を唱えた。 1874年、琉球の漁民が台湾の住民に殺害されたことを理由に、中国台湾出兵。近代中国への最初の侵略。 1875年、軍艦を派遣し、朝鮮の領海をしばしば侵犯し、同年9月江華島事件①を機にその開国を迫り、翌年日朝修好条規②を締結させ、朝鮮を開国させた。これは、欧米諸国が日本に押し付けた条約をまねにした条約であった。 さらに1879年琉球王国を占領し、沖縄県の設置を強行した(琉球処分③)清政府の反対を無視し、琉球を完全に日本の領土化した。 1875年、千島?樺太交換条約で、千島全島は日本、樺太をロシア領とした。このように、当時の日本の外交は、欧米諸国に対して極めて弱腰で、妥協だったが、中?朝に対する政策は最初から侵略的だったことが分かった。 注釈: ① 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年9月20日朝鮮の開国を要求して示威中の日本の軍艦雲揚号が、江華島砲台と交戦し、一時占領した武力衝突事件。雲揚号事件とも呼ばれる。この結果、翌76年釜山ほか二港の開港などを内容とする江華条約(日朝修好条規)が締結された。 ② 日朝修好条規 1876年に、日本と李
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