小浜出土铜铎について.doc

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2、小浜出土銅鐸について  昭和8年1月、小浜字池ノ谷よりのほぼ完全な銅鐸1個が発見された。発見者は小浜の青年山下元一(当時17歳)で、区有原野開墾中のことである。現在、東京国立博物館蔵となっているが、近年同鋳型と思われる銅鐸が他県でも発見されており、その考古学的価値は極めて高い。  この銅鐸について、発見者山下に発見当時の模様を聞きとりした賀須井智(小浜)は次の報告を寄せている。  小浜銅鐸は、昭和八年一月九日、小浜東方の池の谷丘陵の尾根を少し下った斜面より発見された。  発見者は村内の山下元一氏(当時十七歳)で、食糧不足を解消するために分け与えられた村の共有地を、唐クワで開墾中に、それにあたったという。(この時のクワ跡は鐸身のすそに残っている)唐グワの一振りと言うから地面より二〇~三〇センチほどの深さの所に横たわっていたということになろうか。発見時元一氏は周辺をくまなく調べてみたが、他には特に目につくものはなかったという。池の谷は以前にも、人の手が加わっていたが、銅鐸の埋納や周辺の状況について、はっきりしたことはわからない。  さて、「何か珍しい物」を彫り出した元一氏は、いつも通りに仕事を終え、その鈕孔にクワの柄を通しかついで持ち帰った。そして家の下の共同風呂で順番をまっていた数人の村人の前にそれをおろし、「これは何だろう」と聞いたそうだ。しかし村人はそれが何であるか全く知らず、珍しそうに足で蹴ったり、ころがしたり、持ち上げたりするだけで、一向にがあかず、元一氏もあきらめ、それを奇麗に洗って「そうけ」に入れ家の横に無造作に投げていたらしい。  ところが翌日からが大変であった。元一氏の母キヨさんによると、その「珍しい物」(それが銅鐸という貴重なものであることは泊小学校の尾崎先生や役場の人によって知らされる。)が金になるとにらんだ有力者が、それを安く買いとろうとしたり、連日のようにを開いて、それを村に返すよう強く求めたり、それでも言う事は聞かないということで、「村はね」に近いこともされたという。  しかし、そういった圧力をはねのけ、銅鐸は国へ無事寄付されることになり、手袋をはめた役人が、それをうやうやしく運んで行った。  銅鐸は何もなかったかのごとく、現在東京の国立博物館のガラス?ケースの中に展示されているが、金をめぐる村をあげての騒ぎに巻き込まれ、「クワの一振りで、えらい目にあった」というのが、発見者の家族の実感のようだ。  この銅鐸の姿は巻頭カラー写真で紹介しているが、『県史』(原始古代編?47年3月発行) もカラーグラビアでこれを取上げ、次のように解説している。  銅たくとしては小形で時代も古い。流水文が鮮明で美しく、サル?カメ?イヌ?シカが臼をつく人とともに線刻されており、(振子)を伴って出土した。東京国立博物館でこれを見た外人が、即座に「ジャパニーズ?ベル!」と断定したというが、非実用品?宗教的儀器に変った銅たくも、古くは中につるした舌を振り鳴らした楽器であったことがわかる。舌を伴出した銅たくは、淡路島と和歌山市に例があるが、極めて貴重な遺物である。  さて、この銅鐸の出土を全国に紹介したのは、西伯郡淀江町の郷土史家倉光清六である。氏が当時の考古学専門誌『考古学』(第4巻第3号、昭和8年3月刊)に「伯耆新発見の銅鐸」と題して報告している。その冒頭には、次のように記されている。  昭和八年二月廿八日附の大坂朝日新聞鳥取版は、伯耆東伯郡泊村地内から、近頃一口の流水紋式銅鐸が發掘せられ、倉吉警察署の保管に歸して居ることを報道した。私はこの記事を一瞥すると同時に、恰かも晴天ではあるし、●日調査の意を決し、午前九時卅四分の上り列車に辛くも搭乗して、一時間半後には泊驛に下車した。意外にも因幡境に接する泊地方は未だ所々雪が残ってゐて、附近の山々には何れもはだれ雪を認める。同村小學校に尾崎岩雄氏を訪て、添書など戴いて大字小濱部落に急行、發掘者山下元一靑年について聞くに、發見地は因幡境の山の蔭の斜面で、特に雪は多からうといふ。折角來たのに調査不能であるまいかと心配しながらも、ともかく山下君の案内に從って發見地に到着して見れば、果して四、五寸近い殘雪である。が、發見個所は幸にも同君が竹を立てゝ標示をなして居ったことゝ、同君の盡力で雪を搔き退けて●れたことによって、兎も角一應の調査を●げることを得、尚ほその附近の、●に雪の消えた●墾畠地をも踏査した。  それから歸途、倉吉町警察署を訪づれた時分は、はやくも日が暮れて了ったが、福田巡査部長の非常な好意により、夜分にも拘はらず遺品の調査を許された。完全な銅鐸といふものをしみじみと觀たのは、私にとっては實にこれが始めてゞある。  さて、この銅鐸は新聞紙の報道の如く地文は流水文であるが、一條の繒●

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