9. 江藤淳.docVIP

  1. 1、原创力文档(book118)网站文档一经付费(服务费),不意味着购买了该文档的版权,仅供个人/单位学习、研究之用,不得用于商业用途,未经授权,严禁复制、发行、汇编、翻译或者网络传播等,侵权必究。。
  2. 2、本站所有内容均由合作方或网友上传,本站不对文档的完整性、权威性及其观点立场正确性做任何保证或承诺!文档内容仅供研究参考,付费前请自行鉴别。如您付费,意味着您自己接受本站规则且自行承担风险,本站不退款、不进行额外附加服务;查看《如何避免下载的几个坑》。如果您已付费下载过本站文档,您可以点击 这里二次下载
  3. 3、如文档侵犯商业秘密、侵犯著作权、侵犯人身权等,请点击“版权申诉”(推荐),也可以打举报电话:400-050-0827(电话支持时间:9:00-18:30)。
  4. 4、该文档为VIP文档,如果想要下载,成为VIP会员后,下载免费。
  5. 5、成为VIP后,下载本文档将扣除1次下载权益。下载后,不支持退款、换文档。如有疑问请联系我们
  6. 6、成为VIP后,您将拥有八大权益,权益包括:VIP文档下载权益、阅读免打扰、文档格式转换、高级专利检索、专属身份标志、高级客服、多端互通、版权登记。
  7. 7、VIP文档为合作方或网友上传,每下载1次, 网站将根据用户上传文档的质量评分、类型等,对文档贡献者给予高额补贴、流量扶持。如果你也想贡献VIP文档。上传文档
查看更多
   9.江藤 淳  江藤淳 江藤淳が自殺したのは先月、7月のことである。  江藤淳といっても、知らない若者が多いらしい。 若いとき「夏目漱石」を書き、死ぬまで「漱石とその時代」を書き続けた人で、文芸批評家といわれている。  しかし、僕にとっては、アメリカに出かけていって、メリーランド州スートランドというところにある合衆国国立公文書館分室の数百のダンボール箱を調べて、 「今の憲法九条は、三発目の原爆をちらつかされながら、押しつけられたものだ」と教えてくれた人である。 「憲法九条を改正して、自衛隊を軍隊として認め、日本は国家として主権回復(自立)しなくてはならない」 という彼の主張は読むなりスーッと僕の頭に入ってしまった。  アメリカというのはすごい国で、旧敵国の日本人に、自由に文献を読ませてくれ、上記のようなことも調べればわかる仕組みになっている。 が、そうした民主主義の自由な国であっても、GHQは言論の統制や誘導を実施したから、敗戦後の日本には、言論の自由などありはしなかった。それが現在に至るまで、悪影響を及ぼしている。江藤淳はそうしたことを調べだしている。(「閉ざされた言語空間――占領軍の検閲と戦後」文春文庫1994参照)  46年憲法  上記のことが、「1946年憲法―その拘束」という本に書かれている。  手元にある本は「1946年憲法―その拘束 その他」(文春文庫1995)だが、その「まえがき」を読むと、「『1946年憲法―その拘束』が単行本になったのは、昭和55年(1980)10月25日」と書かれている。 32歳の僕は、この本を函館で読んだ。  田中先生  僕は昭和30年の春に、宮崎大学学芸学部附属小学校に入学した。  宮大のコンクリートの塀には、機銃掃射の痕がたくさんあった。  宮崎空港近くの官舎に住んでいたのだが、周囲にバクダンイケ(爆弾池)というのがいくつもあって、山の方であれば鮒やナマズ、浜の方であればハゼがいくらでも釣れた。爆弾が落ちると、大きい場合は数十メートル、小さい場合は数メートルの擂り鉢状の穴が空いて水が溜まり、池になる。そうすると、そこに魚などの生物が住み始める。川やドブと繋がっていない単独の池に、どうやって魚が住み始めるのか、今に至るまで、僕は理解していない。  小学一二年の担任は、田中長二郎先生だった。  先生はオルガンを弾くのが下手だった。六歳の僕が気の毒に思った。  彼は県展に毎年のように入賞する絵を描く、画家だった。  戦前の子供達に「鬼畜米英」と教え、兵隊さんになるように教えたことは間違いだった、と僕らに話した。  運動場の隅に小さな石があったのだが、それは機銃掃射で死んだ彼の教え子たちの慰霊碑だと言った。  戦後、墨で塗った教科書で授業をするのが辛かったとも言っていた。  僕はこの田中先生が、無茶ムチャ好きだった。  彼が東京に出張になって帰ってきたとき、初めて寝台車に乗ったと興奮して話した。上中下三段ある上が安くて、700円したと言った。このころの僕は高いところが好きだったから、どうして一番上が安いのか不思議に思った。  僕は中学で宮崎から首都圏に引っ越したが、宮崎が好きで、よく帰省?した。  大学生の時に宮崎に行き、田中先生が、僕の宿舎に来て、二人で晩飯を食ったことがある。  ホントに小さなトックリ二三本で、田中先生は、真っ赤な顔になった。僕の方は何ともなかった。  会計するとき、田中先生は自分が払うといった。が、予想以上に高かったようで、彼の財布の中にある現金が足りなかった。足りない分を僕が払ったが、何だか申し訳なかった。  田中先生は、いつもカバンに葉書を入れていて、教え子から手紙が来ると、たちまち絵と詩の返事を書いた。  その先生が、戦争を反省し、民主主義を喜んでいたから、僕は彼の思うような生徒に成長した。  アメリカが望む「被占領国日本の優等生」に仕立て上げられたとは、全く気がつかなかった。  日本国憲法は、日本人の反省の元に出来たものだと思って育った。  強制された嘘  日本国憲法が出来たとき(昭和21年11月3日)、裕仁さんは、  「朕は日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」(文春文庫版P19)  という勅語を出している。  時の総理大臣、幣原喜重郎に関しては、  「幣原首相が内外人に対して、“戦争放棄条項”は全く自分の発意で入れたと語っている」(同書P47)  「よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意志に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、私に関する

文档评论(0)

文档专家 + 关注
实名认证
文档贡献者

该用户很懒,什么也没介绍

1亿VIP精品文档

相关文档