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第六課 沈黙の世界
加藤秀俊
満員電車で、乗客たちの行動を見ていて気がついたことがある。それは、このおびただしい数の、押しつぶされた人間たちが、例外なしに無表情で、しかも無言だ、という事実である。みんな、むっつりと黙って、つまらなそうな顔をしている。もとより、満員電車に乗っているということは、あんまり愉快な経験であろはずがなく、この何千何万の通勤者たちが、いわしの缶詰のごとくにつぶされ、なおかつ、にこにこおしゃべりをしているとするなら、それこそ不気味というべきであろう。無表情、無言、ということこそ、こうした場所の人間性なのである。
だが、その無表情、無言も程度問題だ、と私は思う。りわけ、満員電車から降りる時に、無言で人を押しのけ、ドアに向かって移動する人々にぶつかると、なんとなく、変な気持ちになる。それは、あたかも人間のかたまりの真ん中を貫通して、巨大なモグラが動いているような感じなのだ。押しのけるほうも、押しのけられるほうもひたすら無言。それは私には不思議なのである。
同じようなことを、私は、例えばデパートのエレベーターなどでも経験する。ある階で止まると、突然に、奥の方から無言もモグラが動いている。突然だから、こっちもびっくりする。いずれにせよ、あんまり、いい気持ちのものではない。
ちょっとひと言、声をかけてくれればいいのに、と思う。「折りますよ。」「ごめんなさい。」そういう簡単なひと言がかけられれば、こっちもそれを一つの準備刺激として、通過する空間を作るべく努力できるはずである。そして、「どうぞ。」という反応の言葉も、おのずから出てこようというものだ。黙って、やたらに背中を押されていたのでは、何か何やら分からず、不愉快な思いをせざるを得ない。
その上、このモグラ人間の中のは、しばしば、押し分け、かき分けながら、周りの人間たちを一種の敵意と憎悪に満ちたまなざしでにらみつける連中がいる。あたかも、自分が脱出のため四苦八苦しているのは、周りの人間たちがいけないからだ。といったような表情がそこにはある。そうした表情でにらまれると、こっちも腹が立ち、出させてやるものか、といった気持ちがかすめる.したがって、譲り合うというよりも、押し合う姿勢をとらざるを得なくなり、満員の電車やエレベーターは、ますます不愉快な経験となる。
さまざまなサービスの場面でも、われわれは、押しなべて沈黙民族だ。例えば喫茶店で飲む一杯のコーヒーがそうだ。ウェイトレスが注文をとりにくる。われわれの多くは、ただ「コーヒー」とひと言事務的につぶやく。彼女は、やがて無言のままコーヒーと伝票を、これまた事務的にポンとテーブルの上に置き、お客のほうも、黙々とコーヒーを飲み、金を払って帰っていく。これもまた、どうにかならないか、と私は思う。
こんなことを言うのも、ひょっとすると、私自身がアメリカやヨーロッパで暮らし足り、滞在したりした時の経験が背景にあるからなのかもしれない。同じ一杯のこのコーヒーでも、欧米、とりわけアメリカの社会では、大分様子が違うのである。
例えば、アメリカでコーヒーショップに入る。ウェイトレスはメニューを持って、「おはようございます。御機嫌いかが?」と、まずこうくる。こっちの方は、それに答えて、「ありがとう、まあまあだね、ところで……」。と、兎に角、何かものを言わざるを得ない仕掛けになっているのである。そして、そういう、行きずりの人間関係のウォーミング?アップの後に、コーヒーが運ばれてくるわけで、したがって、彼女の方は、「お待たせしました。さあどうぞ。」ということになり、こちらとしても、「ありがとう。」という言葉が自然に出てくるものなのだ。
もとより、こんな風にして交わされる二言三言の会話に実用的意味があるか、といえば、答えは否である。別にお天気がよかろうと悪かろうと、あるいは当方の機嫌がどうであろうと、そんなことは実のところ、問題ではない。要するに、この種の「会話」は、言葉の「意味」に照らして考えてみたら、全く無意味という以外にいいようはないのである。しかし、この無意味なる会話のあるなしによって、人間同士の係わり合いの形は、ずいぶん異なったものになる。早い話、ぶすっ、と押し黙ったウェイトレスがガチャリとテーブルの上に置いてゆくコーヒーと、にっこりほほえんで、「さあどうぞ。」と置かれるコーヒーと、どっちがあなたにとっておいしいか。
日本文化が沈黙によって支配されているのは、いったいなぜか。―これは歴史的にも社会的にも、極めて興味ある問題である。柳田国男先生がその著作の中で繰り返し指摘されたように、日本の民衆生活の中で、お喋りというものがマイナスの価値を持ち、、ただ黙々と働くことが美徳とされてきたこと、そして、更
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