涙とストレス緩和 - 公益財団法人 MSD生命科学財団.PDFVIP

涙とストレス緩和 東邦大学医学部統合生理学　有田秀穂 はじめに 涙はストレスによって誘発されるが、涙を流す行動はストレス緩和にもなる。すなわち、こ のセミナーの企画者である二木先生が言われるように、ストレスにはわるいストレスとよい ストレスがあるとすると、激しく涙を流す行為である号泣は、その後に気分がスッキリするこ とから分かるように、よいストレスとして機能する可能性がある。この点について脳神経科 学的なデータを紹介する。 1.　涙の生後発達と共感脳 私たちは泣き声を上げながら生まれてくる。ただし、新生児は泣き声を出しても、涙を流 さないとされる。一歳位になると、涙を流して泣くようになるが、その時の誘因は間違いなく ストレスである。お腹が空いたり、おむつが濡れたりという不快感であったり、転んで痛みを 感じる場合もある。この泣きは、ストレス緩和というより、親に対する非言語コミュニケーショ ンとしての役割を担っている。 このような赤ん坊のストレス泣きは、生後発達に伴って社会的に抑制されるようになる。 「男は泣かない」とか、「そのぐらいのことで泣くな」と親や大人に諭され、泣く行為が抑制さ れる。しかし、それでも子どもから青年期にかけて号泣する場合がある。その理由は、自尊 心が傷つけられたり、勝負に負けたりした場合で、いわゆる悔し涙である。この場合には自 己（自我）を認識する脳が関与すると推測される。 ところが、大人になると、悔し涙さえも社会的に抑制されてしまう。代わって現れる涙が、 感動の涙である。オリンピックで表彰台に上がった選手とともに泣いたり、感動的なドラマを 見て号泣したりする涙である。他者に対する共感がベースになった涙である。この共感に関 する脳領域は、内側前頭前野であり、「心の理論」として心理的相互交流に寄与する。本研 究では、号泣時に共感脳である内側前頭前野の活動がどのように変動するかに焦点をあ てて、光トポグラフィ解析を行った。 2.　流涙の生理学とストレス 流涙は自律神経性に調節される。涙腺は、脳幹の上唾液核から顔面神経を介して、副 交感神経性の制御を受ける。 ところで、涙には三種類あり、基礎分泌としての涙は持続的で微量であり、ドライアイなど との関連がある。もう一つは、反応性の涙であり、目にゴミが入ったり、タマネギを切ったり して刺激を受けると流れ、一種の防御反射である。その求心路は三叉神経で、遠心路が副 交感神経（顔面神経）である。 第三の涙が情動性の涙であり、ここで取り上げる涙である。心を揺り動かされる体験で、 共感脳が激しく興奮したときに、その信号が下行性の司令となって、脳幹の上唾液核に入 力されると考えられる。その副交感神経の活動亢進が、涙腺から大量の涙を分泌させ、そ れが目から溢れることになる。 このように、感動の涙の状態が副交感神経優位であることは、ストレス状態との絡みで、 注目に値する。一般にストレス状態は、交感神経の緊張が非常に亢進した状態である。短 期的には、交感神経アドレナリン系の活動亢進であり、長期的には視床下部・下垂体・副 腎皮質軸（HPA 軸）の賦活が認められる。他方、号泣状態では、自律神経のバランスが一 時的に副交感神経優位の状態にシフトしていることになる。すなわち、号泣は、ストレス状 態にある脳（交感神経緊張状態）を一時的にリセットさせる効果が期待される。 ストレス緩和の通常の方法は、安静や睡眠などによってリラックス状態を発現させ、その 結果として交感神経緊張状態を緩めることである。これは、いわば消極的なストレス緩和で あろう。号泣はむしろ激しい情動行動であり、リラックスとは逆である。にもかかわらず、号 泣後にはスッキリ爽快の気分が現れる。号泣は、覚醒状態にありながら、積極的に副交感 神経優位の状態を発現させて、ストレス緩和に寄与するものと考察される。その起点となる 脳構造は、前頭前野の共感脳である。 3.　前頭前野 号泣時の前頭前野の活動変動を見る前に、前頭前野の働きを概観しておこう。 前頭前野はヒトで最も発達した脳領域である。前頭前野を事故で限局性に破壊された場合、 その人は、一見何の異常もないように振る舞う。普通に歩き、会話も正常で、食事もとれ、 もちろん生命活動にも支障がない。ところが、人格が変わったと表現がされる行動変化が 現れる。集中力がなくなり、計画的に行動できなくなり、衝動的で、相手の心が読