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千叶礼Citation京都大学构内遗迹调查研究年报TheAnnu
Title京都大学北部構内採集の石棒
Author(s)千葉, 豊
Citation
Issue Date2013-03-31
URL /2433/226483
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversionpublisher
Kyoto University
第Ⅱ部 京都大学文化財総合研究センター紀要ⅩⅩⅡ
京都大学北部構内採集の石棒
千葉 豊
比叡山西南麓における栽培穀物出現期の様相
遠藤英子 伊藤淳史
北白川追分町遺跡のドングリ集積遺構の炭素14年代
冨井 眞
羽 束 考
笹川尚紀
京都大学北部構内採集の石棒
千葉 豊
1 は じ め に
京都大学北部構内に所在する北白川追分町縄文遺跡は,文学部考古学教室の濱田耕作が
1923年10月,散歩の途中で磨製石斧を採集したことから試掘調査がおこなわれ,確認され
(1)
た遺跡である(図100-1地点) 。石斧採集の直後,考古学教室によっておこなわれた試
掘調査では,縄文土器をはじめ石鏃・磨製石斧・切目石錘などが発見されるものの,それ
らは遺物包含層が工事によって削平されたために地上に散布したものと考えられた。そし
て,遺跡はすでに校舎建設にともなう地均し工事によって破壊されたと推測された〔梅原
1923,島田1924〕。
遺跡発見の翌1924年には,藤本理三郎が石棒を採集して文学部陳列館に寄贈するなど
〔横山・佐原1960〕,北部構内では,縄文時代以降の遺物がおりに触れて採集されること
(2)
があり,遺跡の存在が注意されてきた 。しかし,正式な発掘調査はなされないまま時を
経てきていた。
(3)
こうした状況を大きく変えたのが,本稿で取り上げる石棒の発見である 。石棒は,
1972年,校舎建設中に偶然採集されるが,この発見は長らくその存在が忘れられていたこ
の遺跡が地下に良好な状態で残っていることを改めて確認させる契機となり,大学構内に
おけるその後の埋蔵文化財行政のありかたに大きな影響を与えるものとなった。
この石棒については,1991年,文学部博物館(現・総合博物館)で「先史時代の北白川」
という企画展がおこなわれたときにはじめて公開展示され,また写真や図が公表された
〔京都大学文学部博物館1991,千葉1992〕。しかしながら,採集の経緯などは十分に報告さ
れないまま今日に至っている。
筆者は,1991年の企画展のさい,関係者の方から直接お話しをきくことができ,また今
回改めて当時関係されていた複数の方から新たな話しを聞くことができた。そこで本稿で
は,前半部分で石棒発見とその直後の状況を埋蔵文化財行政という観点から整理記述し,
後半部分では石棒そのもののもつ考古資料としての意義を再検討したい。
なお文中,敬称は略させていただいた。ご寛恕願いたい。
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京都大学北部構内採集の石棒
2 採集の経緯
採集の経緯に直接関わる資料としては,都出比
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