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第1章人物と略歴
A.C.ピグーの伝記的諸側面
弘前学院大学 本郷 亮
(『弘前大学経済研究』第27号, 2004年11月: 51-66頁)
Ⅰ 問題設定
軍人の息子で「まるで行進しているかのように振る舞う」と評されたザ?プロフ、すなわちケンブリッジ大学経済学教授ピグー(Arthur Cecil Pigou, 1877-1959)とは、どんな人物だったのか。晩年には、ばかげた高い調子の声によくなり、漫画と扇情小説しか読まないと噂される、奇妙な服装の近づき難い人であり、暖かな日には、キングズ?カレッジ前庭の門番小屋の傍らの芝生でデッキ?チェアに座っていたそうである。「もし教授の友人らが皆、彼の愉快な思い出を1つ1つ話しだせば、本が1冊十分にできる」(Collard, 1981: 105, 訳108)とも言われる。
だがピグーは、学内行政や他の経済学者との交流に消極的で(本稿でみるように、)、限られた仲間としか親しく交際しなかったため、その伝記的資料は他のケンブリッジ経済学者、例えばマーシャルやJ.M.ケインズに比べて格段に少ない。事実わが国では、ピグーに関する伝記的情報は殆ど知られていないのが実情である。本稿では、彼の生涯全体を網羅的に扱うことはできないが、幾つかの側面に焦点を絞り、その人物像に光をあてたい。
すなわち、まず第Ⅱ節では教授就任までの略歴、第Ⅲ節では教授職をめぐるピグーとフォックスウェルとの対立、第Ⅳ節では戦時中のピグーの平和主義的活動とフォックスウェル派の巻き返し運動など、最後に第Ⅴ節ではピグーの登山活動、をみてゆく。
Ⅱ 教授就任までの経歴
ピグーは、英国第15連隊の将校だった父クラレンスClarence George Scott Pigouとその妻ノラNoraの長男として、1877年11月18日、母の生家のあるワイトWight島のライドRydeに生まれた。その家系については、父方は「もとは貿易商、後の代には文官civil servantとして、長くインド?中国につながりをもったユグノーの後裔」、母方は「昔、アイルランド統治で勲功と富を得た家柄」とされる(Robinson, 1968: 90)。母方の家系については『国民伝記辞典』(Dictionary of National Biography)に記載があり、それによれば、ピグーの母ノラはジョン?リース卿Sir John Leesの次女であった。こうした事からみて、また後にみる出費のかさむその学歴からみて、本稿の主人公たるピグーは、比較的豊かな家庭の出身だと言ってよかろう。
1891年、ピグーはかつて父が通ったのと同じパブリック?スクールである名門ハロウ(同校は現在のロンドン中心街から北西方向に鉄道で半時間程の大変見晴らしのよい丘の上にある) に進学したが、ハロウにおいて彼は「死すべき者らの中にあって神だった」(Champernowne, 1959: 264)と評されたところをみると、よほど卓越した早熟の青年だったに違いない。
ハロウを主席で卒業したピグーは、95年、ケンブリッジのキングズ?カレッジに進学し、まず歴史と近代諸国語を学ぶ。後年のその優れた語学力はこの時に培われたものであろう。また同年、ハロウからクレイトン近代奨学金Clayton Modern Scholarship(「近代」とはギリシアの「古典」でないという意味)と算術賞prize for Arithmeticを、またMinor Scholarshipを(Times, 1895.4.8; Times, 1895.12.14)。
97、G.L.ディキンソンらの指導の下、ピグーは歴史を専攻した。そして99年の歴史トライポスにおいて「一級」を、翌1900年の第2部?道徳科学トライポスでも「一級(上級政治経済学の特賞付き)」を獲得。くわえて同1900年、学生弁論会ユニオンCambridge Union Societyの会長に選出された。
ところで1899年、すなわちトライポスの受験勉強として彼が経済学を本格的に学び始めたと推測される年、ピグーは「アルフレッド大王への叙事詩Ode to Alfred the Great」によって名誉総長Chancellorの金メダルを得たが(メダルはグルジア人の飢餓救済のため売却された)、その詩の一節には、経済学者としての理想に燃えた初心が顕れたように思われる。
きけ、アルフレッド大王の声を、わが血肉の子らよ
年月のもたらす秘密をつきとめるは、わが声にあらず
年月何をもたらさん、我はそれを知らず
だがこれは我の知るところ
わが椅子をマンモン王にあけ渡すこと断じてあらじ
ものごとには金より貴き賞賛こそよせらるべし
寺院は整然たる市
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